人は「信仰」というものを通して、
「苦しみ」に意味を見出そうとしてきた。
概ねそれが、
人類の精神史と言えるのではないか。
恵まれているときは考えもしないけれど、
人生には「苦しみ」が溢れている。
それに直面したときに、
人はそれに「意味」を見出そうとするのだ。
キリスト教でいえば「原罪」
仏教でいえば「カルマ」
そうやって「苦しみ」に理由をつけることで、
「苦しみ」自体に意味を見出す。
「真理」はともかくとして、
人はそうやって「信仰」に救われてきたのだ。
そのために「信仰」が生まれた。
そう言っても過言ではないだろう。
どこかで割り切らなければならない。
「命」にはいくら考えてもわからない部分がある。
だからそういうものは「信仰」に預けて、
それ以上は考えないようにする。
それも一つの手だ。
日本では少数派かもしれないけれど、
世界で見れば人類の多数派が、
そのようにして生きている。
私の立場は圧倒的に「カルマ」に近い。
人格を持つ絶対的な他者がいて、
「苦しみ」をコントロールしていると考えるよりも、
「前世」での行い、その報いとして「苦しみ」がある。
そう考えたほうが腹落ちする。
もちろん人によっては、
全ては偶然で「苦しみ」に意味などない。
そう考えて生きている強者もいるだろう。
だけれども、
私は「人生」に意味を求めている。
それを止めることはできないのだ。
命にはつながりがあって、
死の後も続いていく。
そう考えたほうが救いがあるものだ。
誰かの記憶に残るという、
現実的なつながり、
そういうものもあるだろう。
それも一つの「意味」だ。
世界には様々な価値観があふれていて、
あらゆる情報に簡単にアクセスできる。
だからこれからの時代は、
自らの「人生観」もカスタマイズする時代なのかな。
そうなるともちろん、
「苦しみ」に対する捉え方も千差万別となる。
仏教の起源は「生老病死」の苦しみを乗り越えること、
そこにあると聞く。
ある意味では、
「苦しみとの闘争が人生」
そう言えるのかもしれない。
加えて、それを突き抜けて喜びに至る。
それもまた「人生の醍醐味」と言えるのだろう。
人は「希望」がないと生きてはいけないのだ。
どんなに「苦しみ」の中にあっても、
「将来は良くなるはず」って、
「希望」を信じて「生」をつないでいる。
それが唯一無二の正しい生き方、
どんな状況になっても、
どれだけ裏切られても、
どれだけ不運に見舞われたとしても、
バカみたいに「希望」にしがみついて生きるのだ。
それを恥ずかし気もなく貫ける人こそが、
もしかしたら「人生の達人」なのかもしれないな。
「諦めたら試合終了」
だから人は「苦しみ」に理由をつける。
その「苦しみ」の先に「希望」を見出すために、
人は脆く儚い生き物だから、
「苦しみ」には「理由」が必要なのだ。
だけれどもそれと同時に、
「苦しみ」を糧にして「希望」を見いだせる、
そんな強い生き物でもあるのだ。