「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「苦しみ」に理由をつけるということ

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人は「信仰」というものを通して、

「苦しみ」に意味を見出そうとしてきた。


概ねそれが、

人類の精神史と言えるのではないか。


恵まれているときは考えもしないけれど、

人生には「苦しみ」が溢れている。


それに直面したときに、

人はそれに「意味」を見出そうとするのだ。


キリスト教でいえば「原罪」

仏教でいえば「カルマ」


そうやって「苦しみ」に理由をつけることで、

「苦しみ」自体に意味を見出す。


「真理」はともかくとして、

人はそうやって「信仰」に救われてきたのだ。

そのために「信仰」が生まれた。

そう言っても過言ではないだろう。


どこかで割り切らなければならない。


「命」にはいくら考えてもわからない部分がある。

だからそういうものは「信仰」に預けて、

それ以上は考えないようにする。


それも一つの手だ。

 

日本では少数派かもしれないけれど、

世界で見れば人類の多数派が、

そのようにして生きている。


私の立場は圧倒的に「カルマ」に近い。


人格を持つ絶対的な他者がいて、

「苦しみ」をコントロールしていると考えるよりも、

「前世」での行い、その報いとして「苦しみ」がある。


そう考えたほうが腹落ちする。


もちろん人によっては、

全ては偶然で「苦しみ」に意味などない。

そう考えて生きている強者もいるだろう。


だけれども、

私は「人生」に意味を求めている。

それを止めることはできないのだ。


命にはつながりがあって、

死の後も続いていく。

そう考えたほうが救いがあるものだ。


誰かの記憶に残るという、

現実的なつながり、


そういうものもあるだろう。

それも一つの「意味」だ。


世界には様々な価値観があふれていて、

あらゆる情報に簡単にアクセスできる。


だからこれからの時代は、

自らの「人生観」もカスタマイズする時代なのかな。


そうなるともちろん、

「苦しみ」に対する捉え方も千差万別となる。


仏教の起源は「生老病死」の苦しみを乗り越えること、

そこにあると聞く。


ある意味では、

「苦しみとの闘争が人生」

そう言えるのかもしれない。


加えて、それを突き抜けて喜びに至る。

それもまた「人生の醍醐味」と言えるのだろう。


人は「希望」がないと生きてはいけないのだ。


どんなに「苦しみ」の中にあっても、

「将来は良くなるはず」って、

「希望」を信じて「生」をつないでいる。


それが唯一無二の正しい生き方、


どんな状況になっても、

どれだけ裏切られても、

どれだけ不運に見舞われたとしても、

バカみたいに「希望」にしがみついて生きるのだ。


それを恥ずかし気もなく貫ける人こそが、

もしかしたら「人生の達人」なのかもしれないな。


「諦めたら試合終了」


だから人は「苦しみ」に理由をつける。

その「苦しみ」の先に「希望」を見出すために、

 

人は脆く儚い生き物だから、
「苦しみ」には「理由」が必要なのだ。

 

だけれどもそれと同時に、

「苦しみ」を糧にして「希望」を見いだせる、

そんな強い生き物でもあるのだ。