何かを「嫌い」になってしまうと、
それを連想させるものたちまで「嫌い」になっていく。
「嫌いなあいつ」と仲の良い人や、
「嫌いなあいつ」に似ている有名人、
ドミノ倒しのように、
汚染は広がっていくのだ。
だから意識的に、
ストッパーをかけてやらなければならない。
「あいつのことは嫌い」
それは仕方のないことなのかもしれない。
だけれども、
それを連想させるものたちは関係ない。
意識的にそうしてやらないと、
どんどんどんどん汚染は広がって、
どんどんどんどん自分まで「嫌い」になる。
「嫌い」
それを正当化することで、
「嫌い」に関わることを辞めるから、
代わりに「生きやすさ」を手にいれるのだ。
それには中毒性がある。
だから「生きやすさ」を求めて、
「嫌うこと」がクセになって、
「大切なはずのもの」にまで汚染は広がっていく。
「嫌い」
その裏には必ず「コンプレックス」があるのだ。
だからそれを「嫌い」な対象に投影させて、
嫌悪することで自分を正当化しようとする。
自分の「コンプレックス」を否定する自分、
否定することで自分はその「コンプレックス」を乗り越えた。
そんな気になることで、
そこに価値を見出そうとする。
結局「人」は醜くて浅ましい。
自分が救われることばかりを考えて生きている。
そしてその「人」の中には、
例外なく「自分」も含まれるのだ。
人は自分を「特別視」しがちだけれども、
自分だって醜くて浅ましい「人間」だ。
自分が「嫌いなあいつ」と同じように、
誰かに嫌われているのかもしれない。
いつだって自分を棚に上げてさ。
まるで周りのものたちを評価する、
そんな神のような立場を確保して生きているけれども、
どう贔屓目で見たところで、
「世界から見た自分」は特別なんかではないのだ。
そのことは忘れてはならない。
だから「嫌い」
その汚染をコントロールすること、
どれだけ「嫌い」になったとしても、
それを一般化してはならないし、
それの取り巻きは関係ないのだ。
「嫌い」なものは仕方がないけどさ。
「嫌い」なのはあくまでもあいつだけ、
そうやって割り切っていかないと、
取り返しのつかないことになる。
「人を呪わば穴二つ」
節操なく人を嫌っておいて、
所かまわず毒をまき散らしておいて、
自分だけが幸せになることなどできないのだ。