年を取れば取るほどに、
立場が上がれば上がるほどに、
「おかしいこと」をしていても、
それを指摘される機会は少なくなる。
だからこそ、
フラットな関係をいくつも持っているということ、
それは「善く生きる」上での大きな強みになる。
今は簡単に切れる「つながり」ばかりだ。
「つながり」の数ばかりを気にして、
その数が多いほどステータスになる。
自分にとって、
「耳障りの良い」意見の持ち主とばかりつるんで、
反論に対する耐性はダダ下がりになるのだ。
あまりにも度を越しているものはともかくとしても、
「痛いところを突かれたな」って、
そういう指摘をされたときに、
人の真価は問われるんじゃないのかな。
「グサリ」と刺された痛みに耐えながらも、
それを「グッと」堪えて受け止められるか否か。
将来はそこで分かれるのだ。
「自分の考えはおかしいのかもしれない」
生きていれば、
そう思う場面はたくさんあるだろう。
その時に周りが「イエスマン」ばかりだと、
その環境に慣れきって、
それを「疑う」ことすらやめてしまう。
「自分の生き方に疑問を持つこと」
ものすごく労力がかかる割に、
短期的に見ればものすごくリターンの少ない作業だ。
場合によっては長期的に見ても不毛に終わる。
そういうことも少なくないだろう。
だけれども、
その作業を怠るようになったら、
「人間終わり」なんじゃないのかな。
「善く生きる」上での正解なんてものは、
いつまで経ってもわからないし、
正解だと思っていたことが、
時とともに不正解に変わることも珍しくはない。
自分はいつまでも年を取るだけで、
経験を積み重ねているように思って、
成長したつもりになっているけれども、
「手放す」ことだって成長なのだ。
年を取ればとるほどに、
一緒に生きてきた「自分」ってやつへの愛着が湧く。
変に自信がつくものだから、
「自分」ってやつを知った気になって、
苦労のない方向にばかり自分を導いてしまうのだ。
自分とは異なる意見を「異物」と捉えて、
免疫機能が働くようになったら過剰防衛だ。
正しく動いている自分の細胞まで傷つけてしまうことになる。
「心の免疫反応」が正しく機能するように、
無菌室に閉じこもっていてはいけないのだ。
「クズみたいな女性たち」
ここ数年色々あったけれど、
私の「弱さ」や「コンプレックス」を、
「これでもか」というくらいに炙り出してくれた。
おかげでこうしてブログまで始めて、
「これでもか」というくらいに自分と向き合わせてくれている。
ここ最近は、
私の中の「ドス黒さ」を垂れ流すような記事はめっきり減った。
アーティストは売れ出すと、
みんな「人間賛歌」ばかりを歌いだすようになる。
前にそんな記事を書いたけれど、
私のブログも吐き出すことで毒気が抜かれてしまって、
「人間賛歌」のフェーズに移ったのかな。
私に関わってきた全てのクズどもに感謝と敬愛を込めて合掌、
この先の景色を楽しみにしながら、
先に進むことにしよう。