「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「世界」との距離が近づいた気がする

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「私と世界との関わり方」


そのテーマで執筆を続けていて、

なんだか「世界」との距離が近づいた気がする。


「世界」なんてものは計り知れないものだから、

あくまでも「気がする」だけなのだろう。


だけれども、

私は「私の感情」に寄り添うことで、

「世界」を俯瞰して見ることができるようになった。


「私」の立場だけではなく、

「世界」の立場、


その目線を持つことで、

おそらく「わかりあえる」のだ。


だから「世界」ってやつ、


それも私から見える限定的なものにすぎないけれど、

そいつと少しは仲良くなれたのかもしれない。


私の中に生まれる「言葉」たち、


それをカタチにすることで、

私は「私」になろうとしている。


そしてそのことがかえって、

「世界」との距離を近づけている気がする。


「世界」とはもしかしたら、

「私の外」にあるのではなくて、

「私の中」にあるのかもしれない。


私から見える世界で、

私は「私の目」を見ることはできない。


「見る」という行為、

その主体である「私の目」は、

私から見える世界には存在しないのだ。


それと同じように、

「私が感じている世界」というものは、

私の主観によって生み出されたものだから、

「感じる」主体である私の心は、

その世界には存在しないのかもしれない。


「俯瞰」するということ、


自分の心を世界の外側に置いて、

自分の体が存在する世界を見る。

 

手や足、

体の所々を私は見ることができる。

そして感じることができる。


体は確かにそこに存在するけれど、

心はそこの外側にあるのだ。


そう考えると、

「私と世界との関わり方」


そのテーマは実に興味深いものになる。


「世界」と「私」は独立しているのだ。

それでいて「私から見える世界」は、

私が作り出したもの、


「私」は「世界」に属しているようで、

「世界」には属していない。


だけれども、

「世界」は私が作り出している。


もはやただの言葉遊びだ。

自分でもよくわからなくなってきた。


何を書きたかったかというと、

「私」は「世界」に属しているように思えて、

「世界」とは別の意思を持った存在だということ、

 

それでいて「私から見える世界」は、

私が作り出したものだということ、


「世界」に生かされているようで、

「世界」と共に生きている。


「私」が「世界」を形作って、

その作り上げた世界で生きている。

 

私だけではない。

一人一人がそうやって生きているのだ。


それぞれが「独立した存在」で、

それが重なり合うことで織りなす、

そんな「世界」というもの、


いわば「大世界」

というものだろうか。


私に見えている「世界」

そして私を含む重なりが織りなす「大世界」


この先どのような変化を遂げていくのだろう。


そして「私」もまた、

どのように変化していくのだろう。


それを俯瞰して楽しむこと、


死ぬまで飽きることのない、

何とも壮大な趣味だ。