「私と世界との関わり方」
そのテーマで執筆を続けていて、
なんだか「世界」との距離が近づいた気がする。
「世界」なんてものは計り知れないものだから、
あくまでも「気がする」だけなのだろう。
だけれども、
私は「私の感情」に寄り添うことで、
「世界」を俯瞰して見ることができるようになった。
「私」の立場だけではなく、
「世界」の立場、
その目線を持つことで、
おそらく「わかりあえる」のだ。
だから「世界」ってやつ、
それも私から見える限定的なものにすぎないけれど、
そいつと少しは仲良くなれたのかもしれない。
私の中に生まれる「言葉」たち、
それをカタチにすることで、
私は「私」になろうとしている。
そしてそのことがかえって、
「世界」との距離を近づけている気がする。
「世界」とはもしかしたら、
「私の外」にあるのではなくて、
「私の中」にあるのかもしれない。
私から見える世界で、
私は「私の目」を見ることはできない。
「見る」という行為、
その主体である「私の目」は、
私から見える世界には存在しないのだ。
それと同じように、
「私が感じている世界」というものは、
私の主観によって生み出されたものだから、
「感じる」主体である私の心は、
その世界には存在しないのかもしれない。
「俯瞰」するということ、
自分の心を世界の外側に置いて、
自分の体が存在する世界を見る。
手や足、
体の所々を私は見ることができる。
そして感じることができる。
体は確かにそこに存在するけれど、
心はそこの外側にあるのだ。
そう考えると、
「私と世界との関わり方」
そのテーマは実に興味深いものになる。
「世界」と「私」は独立しているのだ。
それでいて「私から見える世界」は、
私が作り出したもの、
「私」は「世界」に属しているようで、
「世界」には属していない。
だけれども、
「世界」は私が作り出している。
もはやただの言葉遊びだ。
自分でもよくわからなくなってきた。
何を書きたかったかというと、
「私」は「世界」に属しているように思えて、
「世界」とは別の意思を持った存在だということ、
それでいて「私から見える世界」は、
私が作り出したものだということ、
「世界」に生かされているようで、
「世界」と共に生きている。
「私」が「世界」を形作って、
その作り上げた世界で生きている。
私だけではない。
一人一人がそうやって生きているのだ。
それぞれが「独立した存在」で、
それが重なり合うことで織りなす、
そんな「世界」というもの、
いわば「大世界」
というものだろうか。
私に見えている「世界」
そして私を含む重なりが織りなす「大世界」
この先どのような変化を遂げていくのだろう。
そして「私」もまた、
どのように変化していくのだろう。
それを俯瞰して楽しむこと、
死ぬまで飽きることのない、
何とも壮大な趣味だ。