人は「自分のことを理解してくれる人」に対して、
「信頼」を寄せる生き物なのだ。
だからそれをテクニックとして活用し、
「洗脳」するための道具にすることもできる。
人は基本的に「孤独」を感じているから、
その「孤独」という刃物を突き付けられていることに、
どうにも我慢できなくなってしまったときに、
「脆く、儚く、そして手段を選ばない」
そんなモンスターへと化してしまうのだ。
そのモンスター化を止めるためには、
「共感」というものが必要だ。
『鬼滅の刃』の「鬼化」
あれはよくできている。
原初の鬼である鬼舞辻無惨は、
「人間の世界」に対する絶望を操って、
絶望した人間を「鬼の世界」へと引きずり込む。
人は「孤独」に耐えられなくなった時、
それが悪だとわかっていても、
その「居場所」にしがみつくのだ。
だから「共感」
テクニックではなくて、
心からの「共感」
そういうものを身につけられたならば、
きっと多くの信頼を掴むことになるのだろう。
だけれども、
心からの「共感」
それってとても心に負担のかかること、
「喜び」や「楽しみ」ならばいいけれども、
誰かの「苦しみ」や「悲しみ」の一端を、
引き受けてしまうことになるのだから、
「共感」「共感」「共感」
その言葉の効力に、
多くの人が気が付いたものだから、
便利な言葉として定着した。
私もよく使う言葉だ。
だけれども「便利」だからって、
あまりにもそれを多用してしまうと、
それは自分を縛る「鎖」に変わる。
「自分はこういう人間なんだ」って、
自分で自分を定義付けて、
「デフォルトモードネットワーク」として、
脳内に網を張るのだ。
そして時には他人から、
「あの時はああいっていたのに、嘘つき」だなんて、
築いた信頼を失うことにもなりかねない。
「信頼を裏切られる」って、
とんでもなく苦しいことだから、
「信頼を築く」ってことにも、
大きな責任が生じるのだ。
だから「共感」
その言葉にも「覚悟」が必要なんじゃないのかな。
人の考え方なんてものはさ。
その時の環境や立場、
体調なんかでも簡単に変わってしまうのだ。
誰だって「いい人」でいたい。
誰だって人から嫌われたくない。
「共感の輪」だったり、
「信頼の輪」だったり、
そういうものがもてはやされて、
その流れに乗っかることで、
自分があたかも「いい人」になれた、
そんな「自尊心」を高めることができるけれど、
「あなたは本当にいい人なの?」って話だ。
いくら取り繕ったところで、
「自分」は気が付いている。
今言葉にした「共感」が、
心からの「共感」なのか、
それともテクニックとしての「共感」なのか。
そのことに気が付いているのだ。
私は「言葉の持つ力」を信じたいと思っている。
だからこそ生み出した「言葉」には責任を持ちたい。
それを「鎖」にする覚悟、
「共感」という言葉を生み出すときには、
そういうものが必要なのかな。