25年間のタイムスリップ、
まるで純文学のような、
無垢な主人公から見た社会風刺、
事故にあった10歳の少女、
植物状態となり、
目が覚めると35歳になっていた。
「35歳」という年齢設定が絶妙だ。
ギリギリ、
本当にギリギリ人生に取り返しがつきそうな年齢、
まだまだ手放すものよりは、
手に入れることの方が多い。
その境目となるような年齢だ。
脚本は遊川和彦さん、
『過保護のカホコ』『同期のサクラ』を手掛けた脚本家、
男女のやりとりにデジャブを感じたから納得だ。
この2作に比べると、
今のところはコメディタッチが少なく重め、
人類が25年間で失ったものを、
主人公の「のぞみ」は25年間、
その身のうちに保存してきたのかもしれない。
「パーソナリティが肥大化した時代」
当たり前のように、
家族が「家族」として過ごす時間、
SNSがそれを削り取る。
「家族」から「個人」へと狭まる境界線、
人は心のうちに、
「他の誰か」を入れる余裕を失ってしまったのかな。
いつだって「都合のいい相手」ばかりを求めて、
耳障りの悪い言葉は排斥する。
だから「大切だったはずの人」の声は、
徐々に耳に届かなくなる。
「のぞみ」の目に映るものは、
現代では当たり前になった「異質」
心は10歳の「のぞみ」は、
そんな「違和感」を好奇心のままに、
当たり前のように指摘するのだ。
情報は溢れかえり、
子供が無垢であることを許されなくなった社会、
「知りたい」
そう思ったらすぐに、
誰に頼るでもなく、
誰とコミュニケーションを取る必要もなく、
その好奇心は指先一つで満たされる。
便利なのはいいけれどもさ。
「自分で掴み取る経験」
それを逃しているんじゃないのかな。
どんどん積み重なる知識、
それを入れるための器は小さいままなのに、
中身ばかりが増えていく。
そうして器は突貫工事、
外からは立派に見えるけれど、
少しの挫折で見事に崩れ去ってしまうのだ。
「うまくいかない自分」を認めてあげられない。
手に入れる「過程」が抜け落ちているものだから、
認めてやりようがない。
価値観が育たない。
頭でっかちの「大人子供」たちが、
自分の正体も分からずに彷徨い続ける世界、
印象的なセリフがあった。
「もう何年保つかもわからないような地球で、
どう生きるか悩まなくていいから、
目覚めない方が良かったんじゃないのか」
確かにそうなのかもしれない。
あまり積極的に報道はしないけどさ。
どう考えても地球はおかしくなっているのだ。
みんな薄々気がついているけれども、
それを口に出さないようにしている。
楽しいことばかりに目を向けて、
「自分さえ損をしなければいい」って、
そういうことばかりに躍起になる。
どう考えても「おかしい」のだ。
このドラマは「のぞみ」の目を通して、
そういうところを炙り出していくのかな。
「家族のカタチ」
おそらく25年間で大きく変わったものの一つ、
壊れてしまった家族、
父の再婚先にいる引きこもりの息子、
家父長制は崩壊して、
ダブルインカムが主流になることの弊害、
前時代と比較して、
子供に対する影響は、
少なからずあるだろう。
「子供が子供のままではいられない世界」
『過保護のカホコ』では、
「夫婦の在り方」にメスを入れ、
『同期のサクラ』では、
「働くということ」にメスを入れた。
今回は「家族のカタチ」
ここにメスを入れるのだろうか。
「35歳の少女」
失った時間を取り戻すために、
まずは「勉強」から始めるみたいだけれども、
その行き着く先はどこになるのだろうか。
とても興味深く、
今後を追いたいドラマだ。