いわゆる「成功体験」ってやつだ。
偶然転がり込む幸運ではない。
自らの努力によって成功を掴み取る経験、
人にはそういうものが必要なんじゃないかな。
「自己肯定感」
それは「成功体験」の積み重ねでしか育まれない。
失敗してもあきらめずに挑戦し続けて得た成果、
その過程だってそうなり得るだろう。
立派な「成功体験」だ。
大事なことは自分が「成功体験」を見つけ出せるかどうか。
人は「幸せ」になりたいと願うくせに、
「幸せ」になることを恐れている。
だから客観的には充分な「成功体験」なのに、
自分でバイアスかけて「大したことはない」と思い込む。
だから周りの人が大事なんじゃないかな。
忌憚なく指摘してくれて、
忌憚なく感情を分かち合える、
そんな人たちが大事なんじゃないかな。
人は「経験を信仰する生き物」だから、
過去の積み重ねによって「行動規範」が形作られる。
よほど意識的に強制しない限りは、
「生きざま」がそのまま「思考回路」となる。
「指摘してくれる仲間」は必要だけれども、
あくまでもスタンスは「分かち合う」だ。
誰かから何かを与えられるがままに生きていると、
自分の頭で「自分の生き方」を、
考えられなくなってしまうのだ。
今は便利なソリューションがたくさんあって、
色々な人がパッケージとして「生き方」を発信しているけれど、
それを選ぶのは自分自身なのだ。
そして「選んだもの」を血肉にすること、
それを怠ってしまったら、
誰の人生を生きているのかわからなくなる。
「長いものに巻かれたほうが楽に生きられる」
最近とても感じる。
なんだか最近の私はそっちの方向に流されている気がする。
「同調圧力」をあまり気にしない性格だけれども、
それによって生まれる軋轢に疲れてしまったのかな。
「おとなしくしていたほうが楽」
それはそうなんだけどさ。
今いる環境に合わせた形で、
「成功体験」を積み上げる。
手間のかかるのとだけれども、
生きていれば見える景色は変わっていく。
それに合わせた形でまた、
「成功体験」を積み重ねるのだ。
人生はその繰り返しだ。
「成功体験」によって「自尊心」を満たしつつも、
価値観のアップデートを怠らない。
そして積み重ねることがすべてではない。
時には手放す必要もある。
いくつものペルソナを使い分けながら、
それぞれのペルソナに経験値を案分して、
どれをどれくらいレベルアップさせるかなんて、
そんなことにばかり頭を悩ませて、
まるでゲームのようだな。
だけれどもゲームとは違って、
途中で放り出すことはできないのだ。
どんなに苦しくても、
歯を食いしばってプレイし続けるしかない。
その先の未来に、
「希望」という名の光が差し込むことを信じながら、
「生きる」しかないのだ。
「成功体験」というクリア報酬を目指して、
今日もまた一日を生きる。