何度も書いている持論だけれども、
「人は経験を信仰する生き物」だから、
生きていれば誰しも少なからず、
「固定観念」というものを形作る。
その「積み重ね」
それが脳内にネットワークを形成する。
「あの場面ではこう振舞った私」
だから私はこういう人間なのだ。
「みんなができることをうまくできなかった私」
だから私はあれが苦手なのだ。
そして「みんなができなかったことをできた私」
私はそれが得意なんだ。
そうやって、
人は「経験の積み重ね」によって、
「アイデンティティ」を確立して「自分」になる。
それが「デフォルトモードネットワークの働き」だ。
だけれども、
あまりにもそれが発達しすぎると、
人は「デフォルトモードネットワーク」に縛られてしまう。
雁字搦めになり身動きが取れなくなってしまうのだ。
先日書いた記事、
「役者という仕事」と「自死」の関係についても、
おそらくこの「デフォルトモードネットワーク」が、
大きく作用しているのだろう。
「こうでなければならない」
「信念」は諸刃の剣なのだ。
人生を「彩る」こともあるけれど、
人生を「傷つける」こともある。
そして人は時間をかければかけるほどに、
積み上げてきた「持論」に執着するようになる。
そうやって、
「デフォルトモードネットワーク」の働きはどんどん強まり、
あらゆることを許容できなくなっていく。
人からの指摘に対して、
それが正しいものであったとしても、
素直に受け入れられずにイキり立ったり、
自分とは異なる「優れた提案」をもみ消したり、
時間をかけてきたものを否定されて、
「居場所」を奪われることに過剰に敏感になる。
「こうしなきゃならない」
「こうあらねばならない」
「こうあるべきなんだ」ってさ。
何かを貫く「美しさ」ってものはあるけれども、
そこには例外なく「自然体での美しさ」
そういうものがあるんじゃないのかな。
「持論」に固執するあまり、
それが「不自然」になってしまったら、
それは「デフォルトモードネットワーク」が過剰に働いているということ、
自分では中々気が付かないけれど、
自分の意思のようで意志ではないものに、
憑りつかれてしまっているのだ。
「デフォルトモードネットワーク」の、
「デフォルトモードネットワーク」による、
「デフォルトモードネットワーク」のための人生、
いったい誰の人生を生きているのだか、
わからなくなってしまう。
そんなに肩ひじ張ってばかりいないでさ。
「なるようになる」ってさ。
そして「なるようになってもなんとかできる」ってさ。
そういう根源的な「人間力」というか、
そういうものを鍛えていかないといけないんじゃないのかな。
「何者かになりたい」って、
ブログでよく目にする言葉だけれども、
私はこの言葉にずっと違和感を感じていた。
「肩書」を手にするよりも、
「目的」を手に入れることのほうが何100倍も重要だ。
「どう生きたい」
そこにフォーカスするべきなんじゃないのかな。
情報が溢れかえっているものだからさ。
四六時中、誰かと比べて、
自分の立ち位置を確認して、
それに一喜一憂することが生きがいになっている。
「デフォルトモードネットワーク」
それを強固に構築してしまった人類、
今度はそれを手放してあげることが、
かえって「自分になる」ということなんじゃないのかな。
「いい意味で」感動したものだけを、
大事にしまってあげればいいのだ。
何でもかんでも悲観してさ。
期待して裏切られるのが怖いからってさ。
悲観することに「生きがい」なんか感じちゃってさ。
そこに「生きる意味」を求めるから、
おかしなことになる。
幸せになる覚悟ってものが必要なんじゃないかな。
他の何を除けてでも、
幸せになってやるんだって覚悟がさ。
人間なんてこの世界で最も、
「都合のいい生き物」なのだから、