面白い記事を見つけた。
現代人は匿名でオンライン上に「心の闇」をさらけ出しすぎている、
その病理は「自己の希薄化」にある、
というもの、
私はよく「パーソナリティの肥大化した時代」
そういう表現を使うけれども、
おそらく意味するところは同じだと思う。
「自分」であろうとするあまり、
「何者かになりたい」と思うあまり、
「こうでなければならない」
そういう感情に支配される。
与えられた「居場所」にすがりつき、
それを守ることに躍起になる。
一度ラベルが付いてしまったら、
あとは敷かれたレールの上を歩くだけ、
余程、意識的に脱線しようとしない限りは、
その「ラベル」に引き寄せられた人生になる。
「自分が何者なのかわからない」
朝井リョウさんの小説『何者』
その映画版を見て感じたけれど、
誰もが「主体性の無い批評家」
周りからの評価に怯えるとともに、
何かを評価することで、
自分の価値を見出そうとする。
その評価対象が、
世間から見て価値のあるものであるほどに、
自尊心は満たされる。
「評価すること」
「否定」も「肯定」も、
その出所に大差はない。
人は「評価するため」に、
「評価すること」で「自尊心を満たすため」に、
匿名の投稿を続けるのだ。
だけれども、
気をつけなければならない。
どんなに他の何かを評価したところで、
自分の価値は何も変わらないのだ。
「いいね」の数が増えたところで、
フォロワーが増えたところで、
「自分の価値」は変わらないのだ。
「自分の価値」
もしも自分の投稿を見て、
「救われた」と思う人が一人でもいるのであれば、
それはもしかしたら、
「自分の価値」につながるのかもしれない。
リアルでもそうだけれども、
「人」が「数字」に見えてきたら人間終わりだ。
ノルマに追われて契約を取るために、
人を騙してみたり、
経験人数を稼ぐために、
偽りの愛の言葉を囁いてみたり、
「数字」には魔力があるものだから、
人は先に進んだ気になるために、
「数字を積み上げること」に躍起になる。
「自分の軸」など考える余裕もなく、
数字に魅せられて生きているのだ。
だけれども、
「数字」に自分の価値を委ねたところでさ。
自分のことなど全く知らない、
そんなカオナシたちから称賛されているだけだ。
自分の価値ってものはさ。
自分で作った「物差し」で測るものなんじゃないのかな。
その「物差し」も作らないでさ。
人の作った「物差し」ばかりで自分の価値を測ろうとしたってさ。
一時的には満たされたとしても、
時を経るごとに虚しくなる一方だ。
華やかな芸能人たちが自ら死を選んだ時に、
「もったいない」って、
そんな言葉をかけられるけれども、
いったい何が「もったいない」のだろうか。
ホームレスのおっさんが自ら死を選んでも、
それは「もったいなくない」のだろうか。
それぞれの人生に、
それぞれの理想があって、
こだわって生きている人ほど、
はっきりとした「物差し」がある。
「自死」を肯定するわけではないけれど、
私には人の「自死」を悼むことはできても、
否定することはできない。
「自己の希薄化」
人の評価ばかりを気にして、
人の人生を生きることにばかり躍起になるから、
そうなるんじゃないのかな。
どんなに華やかで、
どんなに人から羨まれるような人生を生きていても、
当の本人が「自分の人生を生きていない」
そう感じていたならば、
それは命を絶つに足る理由になってしまう。
とは書いたものの、
人は結局は周りの評価を気にして生きているのだ。
社会で生きる限りは、
それを止めることはできない。
だから偏ってはいけない。
狭い世界で生きていたら、
その世界で失敗してしまったら、
それだけで生きる理由を失ってしまう。
だから、
いろんな世界とつながることが大事、
もはや「社会」と「人間関係」は、
切っても切れないもの、
だから、せめてもの対策として、
一つの価値観に縛られないことが大事なんじゃないのかな。
色々な価値観に触れる中で、
自分の「軸」というものは育ってくる。
そうやって「自分の物差し」を作るのだ。
わかりやすい「物差し」にばかり心を奪われていたら、
いつまで経っても「自分の物差し」を作ることはできない。
注目を浴びる人生ほど、
その「自分の物差し」を作ることは難しい。
そして今も先も監視社会だ。
「自分らしさ」は集団に飲み込まれていく。
「世界」はどのように折り合いをつけていくのだろうか。
そこに折り合いをつけるために、
「個」はオンライン上に匿名で、
「心の闇」をさらけ出し続けるのだ。