使い古されたテーマだ。
『理系が恋に落ちたので証明してみた。』
「恋愛の数奇性」
それをテーマにしたものは数知れない。
ロマンスとはかけ離れているけれど、
斬新な切り口で「愛」を取り扱う作品もある。
藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』
「恋愛工学」という言葉の生みの親、
藤沢数希氏の代表作だ。
冒頭「東京の街は僕らのソープランドだ」
そんな表現から始まる「恋愛攻略もの」
そんなジャンルだろうか。
非モテ高スペック男が、
交際相手の裏切りを機に一念発起して、
恋愛テクニックを学び「やりまくる」
そこに虚しさを感じてボロボロになったところに・・・
というストーリーだ。
「愛など幻想にすぎない」と証明しようとしたところで、
結局その正体にはたどり着けない。
そんなパラドックス、
その不確実なところに、
作家が「恋愛」をテーマとしたがる理由があるのだろう。
「愛」だの「恋」だのをテーマにしていれば、
「起承転結」を作りやすいのだ。
かく言う私も、
そうやってブログを書いている。
一切姿の見えない私が、
こうやって「童貞」気取って、
ブログを2年半も書いているけれど、
本当は作家志望の「既婚者」かもしれない。
もしくは「婚活」など一切していなくて、
ただの引きこもり50代独身の「喪男」かもしれない。
はたまた、
やけに女性的な文章を書くので、
「心は男」でも「体は女性」のレズビアンかもしれない。
それならばパートナーがいたとしても、
「童貞」であることに偽りはないことになる。
なんともまあ面白いものだ。
そういうミステリアスなところに、
「おかしみ」があるのだろう。
時折湧きたっては、
いつだってうまくいかない私の恋愛、
その様はもはや創作じみている。
いつもいいところまで行って、
こんなにうまくいかないことがあるのだろうか。
多少のタイムラグや脚色はあるにしても、
私は「私の状況」を客観的にありのままに描いているつもりだ。
「落ちがない」
私の物語はいつまで経っても結論に至らない。
まるで私がそれを避けているようだ。
ジャンプの人気漫画のように、
編集者に引き伸ばされているわけではない。
「恋愛」に「正解」のないものだけれども、
それにしたって「結論」は出る。
いつだって私はそれを先延ばしにしているのだ。
そのくせ「報われない恋」ばかりをしていると嘆く。
「覚悟」も見せないでさ。
相手に結論を委ねているのだ。
そんなものは「優しさ」でも何でもない。
私の「優しさ」はただの保身、
「不正解」のレッテルを貼られることを恐れて、
相手を「値踏み」しては一進一退を繰り返す。
そんなことをしたって、
何一つ先のことなんてわからないのにね。
「性欲」に突き動かされない「理性」
そういうものがややこしくしているのかな。
いくらか「結論」を出して経験を積んでいたら、
ここまでこじらせることはなかったのだろう。
さて、表題の通り、
いくら私が私の恋愛をこうして俯瞰したところで、
それは一種の「エンターテインメント」にすぎないのだ。
「道化」に成り下がっている気がする。
私は本当に、
誰かと一緒に人生を進んでいきたいのだろうか。
それは誰にも証明できない難問だ。