思い出したくもないのに、
ふとした時に、
ふとしたものに触れて、
ふと思い出してしまう。
思い出したら最後、
思考を停止することなどできない。
私は「自省的」だ。
「傷」をしっかりと「傷」として、
自分の心に刻み込む。
だから私の心は傷だらけで、
傷のないところを探すほうが難しいくらいだ。
だから、
私にとっての「自分と向き合う作業」
必然的にそれは、
「自分の傷」と向き合うものになる。
作家の話なんかを聞いていると思うのだけれども、
とことん自分の内面と向き合って、
それを絞って絞って絞り切って、
そうして作品を生み出している。
その中には当然、
「傷」もあれば「恥」もある。
綿矢りさ『インストール』
確か執筆当時、女子高生だった彼女、
その彼女の作品に出てきたシーン、
どうでもいいおじさんと、
オンライン上で卑猥な言葉をやり取りする女子高生、
その最中の身体的変化を表現する、
唐突に表れた「濡れた」という官能的な一言、
学生時代に一度だけ読んだ本だけれども、
少しだけお姉さん、
自分と大して年の変わらないうら若き乙女が綴る、
そのたった3文字は、
今でも頭に残るほど印象的だった。
「自分の脳内をさらけ出す」
作品なんてものは、
途方もないくらいに、
それを繰り返した先にできるもの、
そういう作業を重ねてきた人の言葉には、
なんだか魅力的な響きがある。
だから私がこうやって、
ブログに「恥」ばかりを書き綴っていることは、
ある意味では「自分」になるために、
もがいているということなのかな。
綿矢りささんがテレビに出ているのを見て、
この「濡れた」という言葉を思い出す私、
ふとした時に、
ふとしたものに触れて、
ふと思い出してしまう。
記憶というものは厄介なものだ。
一度染みついた印象は、
なかなか消えてはくれないのだ。
「傷つく」
多くの女性から、
そんな鮮烈な印象を植え付けられたものだから、
その印象はそう簡単に消えてはくれない。
「傷が疼く」
嫌いなあの子と、
似ている芸能人がテレビに映るだけでも、
疼いてしまうのだ。
ポルノ動画の女優さんが、
「過去の痛み」と似ていた場合は最悪だ。
だから最近は海外のものばかりを見ている。
だなんて、
そうやって向き合うことを避けている限りは、
いつまで経っても、
この「傷」は疼き続けるのかな。