「人は都合の良い生き物」
私はたびたびそういう表現を使ってきた。
ある種の「皮肉」を込めての言い回しだったのだけれども、
裏を返せばそれが「表」なのだ。
当たり前のこと、
皮肉でも何でもなく、
それが人の本質、
メタ認知がクセになっているものだから、
自己矛盾を見つけては是正する繰り返し、
そういう努力を重ねてきたけれども、
「都合の良さ」
それに身を委ねることができないのは、
人としての欠陥なのかもしれない。
「自身の感情をコントロールすることで成功に近づく」
多くの啓発本なんかは、
大抵そういう理論に基づいて書かれているけれど、
感情をコントロールしすぎると、
見える世界が変わってしまうのかもしれない。
メタ認知では飽き足らず、
相手の感情を理論立てて推測して、
行動の矛盾点の出所を探る。
めんどくさい相手に対しては、
出所まで先読みして指摘すると、
相手は「ぐぅ」の音も出なくなる。
「都合の良さ」
口には出さないけれども、
皆それを「察している」のだ。
それでいて、
それがマイナスなものであれば慰めるし、
プラスなものであれば褒めたたえる。
人間関係は「都合の良さ」の上に成り立っているのだ。
バファリンの半分は、
「優しさ」で出来ているらしいけれど、
「優しさ」のそのまた半分は、
「都合の良さ」で出来ている。
本人が都合よく解釈していれば、
自分に害が及ばない限りはそれを否定しない。
ただでさえサイレントマジョリティが文化として定着する日本、
「本音」はなかなか表に出てこない。
そういう世界で生きている限りは、
その世界では「都合の良さ」が市民権を持ったルールとなる。
だから私も「都合よく」自分の気持ちをごまかして、
「都合よく」相手を気持ちよくさせて、
「都合よく」この世界を解釈すればいいのかな。
「世界の正体」なんてものに興味を持ってしまったら最後、
カタギで生きていくことはできないのだ。
人はいつだって無い物ねだり、
「満たされない」
いつまで経っても「渇く」ばかり、
その「渇き」を潤すために、
水を与え合うのだ。
その水のことを「優しさ」と呼ぶ人もいれば、
「馴れ合い」と馬鹿にする人もいる。
欲しい。欲しい。欲しい。
渇く、渇く、渇く。
水が欲しいから水を与える。
だけれども気をつけなければならない。
自分の水を飲み干してしまったら、
誰かに水を与えることはできないし、
代わりに水をもらうこともできなくなる。
みんな「都合よく」生きているのだから、