私の属性は「童貞」
決して「非モテ」ではないと、
これまでの体験を綴ることで、
自尊心にATフィールドを張っているけれど、
どう考えても私は「性的弱者」だ。
「直接的な性被害」
時代とともに性癖が歪んできたのか。
それとも認識が広がって被害が公になることが増えたのか。
近頃は「男児」に対する「イタズラ」
そういうものが目に付くようになった。
そういうことをする加害者にとって、
満たしたい欲求は「性欲」よりも「支配欲」
以前どこかで読んだ記事で印象に残ったものがあった。
「痴漢」加害者男性の多くは痴漢行為の最中に勃っていないらしい。
(どうやって調べたのかは知らないが)
多くの場合で「女性」は身体的弱者、
だからターゲットにされやすい。
だけれども「弱者」
「加害者ども」にそうみなされれば、
性に関係なく「直接的な被害者」になりうるのだ。
前に小柄な後輩女子と繁華街でご飯を食べに行った時、
やけに尖がった服装をしていたので指摘すると、
彼女は「こういう格好していないと舐められるんですよ」と言っていた。
彼女は「ミニモニ」に入れる身長と、
中身はヤンキーだが普段は「ゆるふわ系」な容姿の持ち主、
バイト先では「キモい男」から、
興味を引くための雑ないじりをされたり、
過去にはストーカー被害に合ったりと、
何かと苦労しているらしい。
彼女の性格は知っていたから、
その言葉に引っかかる部分はあったけれど、
私にはわからない苦労なので、
「君にも問題があるんじゃない?」という言葉を飲み込んで、
「大変だね」と率直にそう伝えた。
話が逸れたけれど、
「性被害」
それは強姦やそれに準ずるものだけではない。
「生きづらさ」
それも含めて「性被害」だ。
そう主張したら、
おそらく多数の女性から賛同を得られるだろう。
その「生きづらさ」
それを「間接的な性被害」と呼ぶならば、
身体的強者である「男性」においても、
この被害は大いに受けている。
女性は社会的な生き物だから、
男性と比較して多くの「コミュニティ」を形成する傾向が強い。
つながりの強弱は問題ではないのだ。
そこに「属していること」
それにより一定の「居場所」を得る。
そしてそれを「武器」に変えて、
「群れ」で強者に立ち向かう。
いわゆる「互助作用」
「私が助ける代わりに私のことも助けてね」
みんながそうとは言わないけれども、
そうしたコミュニティを駆使して、
それを対抗手段として社会という荒波を乗り越えるのだ。
以前こういう記事を書いた。
冒頭に書いた通り、
私は「性的弱者」なものだから、
「トリックオアトリート」と言われるがままに、
「優しさ」という名のおやつを渡しては、
気が付くと手元には何も残っておらず、
搾取されていたことに気が付く。
女性たちの「草刈り場」なのだ。
女性たちは「女性としての自尊心」を満たして、
多少の罪悪感と共に意気揚々と私のもとを去っていく。
そして分が悪くなると、
「私は何も悪いことはしていませんよ」って、
手のひらを返したように友好的に迫る。
私がそのような態度を受け入れないと、
一方的に悪者にして集団攻撃を仕掛けてくるのだ。
それが彼女たちの生存手段、
私が暴走して攻撃してきても、
それに対抗するためのリスクヘッジ、
身を守るために必要なことなのだろう。
こうして私は「間接的な性被害」を受けている。
「男」というだけで、
「しおらしくしている女性」には勝てないのだ。
いくら理路整然と正当性を論じたところで、
そんなものは「女性の涙」の前では無意味なもの、
マシンガンに刀を持って立ち向かうようなものだろう。
「集団」という無数の弾丸を避けて、
ようやく攻撃の機会が訪れる。
多くの場合はその前にハチの巣だ。
「男らしさ」
それは、
どこか「自分の力」だけでやり遂げる。
そんな風味を帯びている。
数で優位に立つよりも、
タイマンで負けない力、
それを追求するのが「男らしさ」なのだろうか。
比べて女性は手段を選ばない。
勝ちさえすればなんでもいいのだ。
加えてそれを「正当化する術」に長けている。
どうも、
都合が良すぎて涙が出てくる。
出てくるのは何の価値もない「男の涙」だけれども、
「直接的な性被害」はさ。
まだまだ女性のほうが圧倒的に多いだろう。
だけれども、
その加害者なんて、
男全体からしたらほんの一握りだ。
それにも関わらず関係ない男にまで、
「過剰防衛」なんじゃないのかな。
だからひとたび自身の不誠実さが引き起こしたことにまで、
「正当防衛」に使うべき武器を取り出して、
数の暴力で理不尽になぎ倒す。
「己の不誠実さ」と向き合うことなどしないのだ。
ただ「しおらしくして」被害を訴えれば、
所属するコミュニティが何とかしてくれる。
何度もそういう場面に出くわしたけれど、
そういう女性の性質には反吐が出る。
女性であることが特権なのだ。
権利ばかりを主張して、
自分の「生きづらさ」ばかりを主張して、
相手の「生きづらさ」を理解しようとは思わない。
挙句の果てには「正当化」
「私は悪くない」
そうやって「のうのうと」生きているのだ。
「自分の不誠実さ」に蓋をしていないでさ。
少しは向き合ったらどうなの?
その場はそれで済んだところで、
今後も同じように数の暴力で解決するのかな。
だから「舐められる」んじゃないのかな。
恰好ばかり尖ったところで中身はスカスカなんだから、
「生きづらさ」
そこに性差は間違いなくある。
だから理解し合うことは難しいけれど、
それを放棄して「自分さえよければ良い」
そういう解消の仕方に未来はあるのかな。
私は嫌いなあいつのことを、
「人として軽蔑」し続ける。
いつも自分は安全なところから、
強かに狡猾に加害者のくせに被害者面をして、
周りを味方につけようとする「あいつ」のことを、
私の「女性不信の病理」はそこにあるのだろう。
「女性」
私はまた一括りにして敵視しているな。
これまでに受けた「不誠実さ」を集合させて、
「憎しみを向ける先」を作り出しているのだ。
手放したくても手放せない。
どうにかならないものか。