だから人は「絶望」の引力に引き寄せられる。
「セルフハンディキャッピング」
自分で自分の将来に予防線を張るのだ。
そういうことが日常になって、
表面的には「優しい」人たちに囲まれて生きていく。
「希望」を信じること、
否、「信じ続ける」こと、
それには途方もない労力が必要だ。
そして「希望」が叶ってからも、
「こんなに幸せでいいのだろうか」
「この幸せはいつまでも続くのだろうか」
そうやって不安に怯えることで、
人は「予防線を張る」
いつまでも「絶望」の引力に惹きつけられて、
気が付けば引き付けられている。
人生には「まさか」という坂がある。
割とポピュラーに使われる表現だ。
人は「得をする」よりも、
「損をしたくない」生き物、
だから「絶望」は格好のおやつなのだ。
「損をしないように」って、
先読みして「絶望」のことだけ見張っていればいい。
そして「絶望」が顔を出した時に、
「それ見たことか」って、
予想的中を勝ち誇っていればいい。
シンプルでわかりやすい「リスクヘッジ」
そうやって「絶望」の虜になっていく。
だけれども「希望」
そっちのほうにも目を向けてやらないと、
「希望」ってやつから、
そっぽ向かれちゃうんじゃないのかな。
漠然としたものではなくて、
確かなもの、
「希望」を叶えやすくするためには、
その正体をしっかり見定めなくてはならない。
何に向かって進んでいるかもわからない。
わかっていても迷いながら進んでいる。
だから途中であきらめてしまって、
「それ見たことか」って、
「初めから期待なんてしていなかった」って、
「どうせ叶うわけないんだよ」って、
「絶望」という名のおやつに飛びつくのだ。
何とも惨めなこと、
バカになればいい。
もっとバカになればいいのにね。
どこまでも「希望」に思いを馳せられるくらい、
バカになれればいいのにね。
人はバカなくらいがちょうどいい。
「禁断の果実」というものは、
確かに「禁断」だったのかもしれない。
本能に忠実に、
素直にまっすぐに生きたい。
誰を傷つけることになったとしても、
素直に生きたい。
だけれどもそれをできないのが私なのだ。