「いやらしい意味」ではない。
いや、「いやらしい意味」も含めてか。
「自粛」が叫ばれてから、
早9ヶ月ほどが経っただろうか。
今年ほど、
一人で過ごす時間が長かった、
そう感じた年はなかったように思う。
社会要請に応じて、
人はなるべく接触を避けて、
毎日顔の半分を隠して生活し、
日に何度も消毒をする。
セブンイレブンのレジはこちら側を向き、
会計はタッチで済ますようになり、
現金をやり取りする機会はめっきりと減った。
かわいい店員さんからお釣りを受け取るときに、
手が触れた時のドキドキ感、
これから先の未来は、
きっとそういうものが無くなってしまうのだ。
「人とのふれあい」
その価値は上がる一方だ。
特に人肌の恋しい季節、
どうりで私のもとにも、
女性から不意の連絡が届くわけだ。
私も人肌恋しい。
「利害関係」は一致しているわけだから、
難しいことは考えずに身を委ねてみるのも悪くはない。
元カノとは二晩を二人で過ごして手を出せなかった私、
ドラマ『#リモラブ』であったけれど、
「手を繋いで一緒に寝る」だけでも満たされる。
私はきっと温もりを求めているのだ。
心のつながりを求めているのだ。
勇気の出なかった言い訳はそういう事にしておこう。
話が逸れそうだ。
時を戻そう。
さて「人とのふれあい」
コミュニケーションの形式がだいぶ変化して、
「無機質なもの」がその割合の多くを占めるようになった。
直接、顔を合わせたり、
直接、触れ合ったり、
もともとの関係性ができていれば、
相も変わらず「キャッキャウフフ」と、
そういうことを続けるのだろうけれど、
私のように、
そう言う相手を持ち合わせていない場合、
「ふれあい」にリスクが伴う分だけ、
ハードルは一層高いものになる、
おそらくは女性もそれを感じていて、
安易に「性」を武器にして迫ることができない。
「接待を伴うサービス」は批判の的となり、
個人的なつながりという体で、
お店を通さずに営業をかけるプロもいるようだ。
そうなると従来の様式は崩壊して、
サービスに伴う対価は当人同士が決めることになる。
ある種の「自由価格競争」だ。
ビジネスモデルの構築として、
人がやりたがらない仕事に参入し、
始めは我慢してノウハウを集めながら、
「やりたくない」要素を軽減していく。
そういうものがある。
飲食店をはじめとして、
人件費をかけながらも、
感染対策に勤しむことが当たり前となった。
リスクを軽減しながらも、
「ふれあい」を軸としたサービス、
その価値が上がれば上がるほど、
それを売りにする商売が増えるんじゃないかな。
無機質な数字にばかり依存して、
それによる幸福感に支配されてきた人類、
「有機質な幸福感」
もしかしたらコロナ禍は、
人類にそれを突きつけるための機会なのかもしれない。
無機質の象徴である「お金」を支払って、
「ふれあい」という有機的なサービスを手に入れる。
当たり前のように生活に根差していた、
「ふれあい」というもの、
それをお金を払わなければ手に入れられない、
そんな世の中になるのかな。
人類はどこに向かっているのだろう。
いくら理性的な生き物を気取ったところで、
生理的な欲求が消えることはない。
「寂しい」
私が差し出した手を両手で挟み込んで、
お釣りを渡してきた若い女性の店員さん、
そんなドキっとする出来事が昔あったけれど、
若者にそんな話をしても伝わらない。
そういう「寂しい」世の中になってしまうのかな。