「うまくいかなかった時」
それを受け入れるための思考回路を考察すると、
大きく2種類に分けられるように思う。
1つは、
うまくいった先の未来にケチをつけて、
「うまくいかなくて良かった」と自分に言い聞かせる方法、
もう1つは、
「うまくいけば良かったけれど、ダメなものは仕方がない」と失敗を受け入れる方法、
私の場合は前者に偏っている気がする。
「うまくいかなかった事柄」にケチをつけて、
「自分は損をしていない」と言い聞かせる。
事実を捻じ曲げてでも、
自分を正当化したいのだ。
「傷つく勇気がない」からそういうことになる。
最近読んだ記事で、
ハッとするものがあった。
「『正義』を使って相手を殴っている人がいる」
というものだ。
私は私を過保護にして、
自分を正当化するロジックを組み立てる癖がある。
相手に70の非があれば、
それを90くらいに仕立て上げ、
相手の非が30くらいだったとしても、
相手のズルさや不誠実さが垣間見えるならば、
それを70や80に仕立て上げる。
私のタチが悪いところは、
10や20は自分の非を認めているところだ。
それにより独善的ではなく、
客観的に公正公平であると思い込む。
私は私のことまでも騙して、
「正義」を振りかざして暴力を振るっているのかもしれない。
何とも浅ましく惨めだ。
そうやって手に入れた「居場所」にしがみついて、
紳士気取っては「自己肯定感」を保っている。
あまりにも「誠実さ」を食い物にされすぎて、
「傷つくこと」に敏感になってしまったのかな。
だから先回りして、
その根を断つことに躍起になる。
そうやって「自己正当化モンスター」の誕生だ。
確かに相対的にみて、
「私のほうが正しい」ことは多いのだろう。
そして私が暴力を振るう相手は、
「不誠実」や「いい加減」で「有言不実行」なことが多い。
だから相手から差し出された「罪悪感」を盾にして、
「自業自得だ」って見下しながら、
「正義」の剣を振りかざす。
そこに「快感」を覚えて、
それを繰り返しているのかもしれない。
繰り返すけれど、
何とも浅ましく惨めだ。
主張すべきことは主張しないといけないけれど、
「過剰防衛」なのかもしれないな。
今書いている文章だって、
やけに言い訳がましい。
「誠実でありたい」と思って生きているけれど、
それだけで生きられるような世界ではない。
もはやトラウマレベルになってしまった、
「女性の不誠実さに対する恐れ」と、
私はどのように向き合えばいいのだろう。
「ダメなものは仕方がない」
報われなかった結果も、
ズキズキと疼く痛みも、
私とは縁のなかった事柄たちの価値を乏すことなく、
受け止めることができたならば、
私は変わることができるのかな。
「自己正当化モンスター」は、
自己正当化が「生きがい」なのだ。
何とも浅ましく惨めな生き物、