「生まれて」から「死ぬ」まで、
紆余曲折することが当たり前だ。
始めから終わりまで真っ直ぐな道なんてない。
たまたま真っ直ぐな道を歩んでいる時があっても、
その手前までは曲がりくねっていたかもしれないし、
その少し先はどうなっているかわからない。
見通しがいいからって油断していたら、
突然道が変化したり、
思わぬ落とし穴にハマったり、
通行止めになって迂回をしなければならないこともある。
「人生」ってものはそういうものだ。
私の20代、
振り返ってみると充実していたように思う。
「精神的」に私が最も充実していた時期、
おそらく24歳の頃だ。
19歳辺りから「理想」というものに片足突っ込んで、
徐々にそれが形作られて、
それに向けてガムシャラに動き始めた。
それがある程度実を結んだ時期、
それが24歳あたりだ。
とにかくポジティブで行動力があった。
そして自信があった。
休日なんてあってないようなもので、
色んな所に飛び込んでは、
「経験」を積むことに飢えていた。
「怖いもの知らず」だったように思う。
その後はビジネスの世界に飛び込んで、
道幅はだいぶ狭くなったけれど、
また「質」の違う「経験」を積み重ねた。
そして30を迎えるあたりだろうか。
しばらく自由な時間ができたので、
一人で色々な場所に行った。
20代の総仕上げだったのかもしれない。
「怖いもの知らず」ではなくなっていたけれど、
分別をわきまえた上での「行動力」は、
この辺りがピークだったように思う。
私の20代、
「女性経験」を除けば、
概ね上々だったのだろう。
ところが30を過ぎた途端に、
風向きは変わってくる。
「自分の心に気が付かないふり」
そういうスキルばかり磨いていたものだから、
無理を無理だと感じなくなる。
体の悲鳴に気が付かなかったのだ。
突然の発作に襲われる。
軽度の「パニック障害」と診断された。
そこからは「生きる」ことに必死だった。
手に入れたものは多いけれど、
多くのものを手放した。
「それまでの私」とは、
全くの別物に変化せざるを得なかった。
「死」に近づきすぎてしまったのかな。
いまだに自律神経はバカになったまま、
単に加齢もあるのかもしれないけれど、
前のように寝る間も削ってガムシャラに動くことはできなくなった。
そこからトレーニングに励んだから、
体は20代よりも仕上がっているし、
健康管理だって何倍も気を付けている。
それでも「行動力」という点では、
ピーク時の半分にも満たないだろう。
今の価値観で、
あの時の「行動力」があったら、
どんなことをしているのだろう。
人はいつだって「ないものねだり」だから、
そんなことを考えてしまう。
「ボーナス期」は終わったのだ。
あとは手持ちで生きるしかない。
不思議な感覚だけれども、
私は「いつ死ぬかわからない」って、
ここ数年はそう思いながら生きている。
そこまで短期間で「死ぬ」という予感はないけれども、
「数年後には生きていないかもしれない」
漠然とそんな予感と共に生きているのだ。
私は「私の人生」を生きているつもりだ。
だけれども、もしかしたら、
「見えないレール」が敷かれているのかな。
不思議な感覚だ。
メタ認知のし過ぎか。
今はまだ私にとって興味深いことが、
世の中にたくさん溢れている。
だからそれが「生きるに足る理由」になる。
だけれども、
「生きていることが当たり前」
そういう地平の上からは、
足が離れてしまったのかもしれない。
「今の私」
もう30も半ばだ。
まだまだこの感覚はアップデートされるのだろうか。
こんなことを考える暇もないくらいに、
生活が充実したら、
きっとこんな考えは取るに足らないのだろう。
親への責任はあるけれども、
私には子供もいなければ配偶者はおろか、
恋人もいない。
「平均的な人生のロードマップ」
教育を受けて、
就職して、
結婚して、
子供を育てて、
そういうのって、
きっとうまくできているのだ。
うまいこと目の前のことだけを考えて、
うまいこと夢中にならなければならないことが目の前に現れて、
そういうふうに、うまいことできているのだ。
私はその「平均的な人生のロードマップ」から外れたから、
こんな余計なことばかり考えているのだろう。
何も考えないで、
ただ「生」を全うできたならば、
こんなに幸せなことはない。
それができないから、
「こじらせ男」なのだろう。
「これからの人生のロードマップ」
今はその作成にすら着手できない。
「伴侶」を求める気持ちが薄れているのだ。
何をこじらせるのかは別として、
これからもずっと私は「こじらせ男」なのかな。
きっとそれが私の道標、