私には「姪」と「甥」がいる。
共に未就学だ。
「姪」がお姉ちゃんで、
「甥」はイヤイヤ期の真っただ中、
いっしょに遊ぶ機会が増えた。
年末年始も実家で遊んだ。
幼稚園児の間でも、
『鬼滅の刃』は絶大な人気らしく、
この前は姪と『紅蓮華』をセッションした。
私が口ずさむと一緒に歌ってくれるのだ。
それも「エンドレス」
何度口ずさんでも釣られて歌ってくれる。
「知ること」
「知っていること」
が楽しくて仕方がないみたいだ。
言葉でのコミュニケーションが取れるようになれば、
語彙は足りなくても立派に「人間」だ。
理性は働かないけれど、
行動規範はさして変わらない。
ただ知らないことがあまりにも多いから、
自分の「欲望」にまっすぐなだけ、
自分の「好奇心」にまっすぐなだけ、
大人との違いは、
ただそれだけなのだ。
人は経験を積むことにより、
どんどん「仮面」を増やしていく。
「ペルソナ」ってやつ、
巧みにそれを付け替えて、
夫や妻を演じてみたり、
親として振舞ってみたり、
社会人として規則に縛られてみたり、
たくさんの「自分」と折り合いつけながら生きるようになることで、
もともとの自分が分からなくなる。
本来は「欲望」にまみれていて、
「好奇心」が有り余っていて、
ただそれにまっすぐだったはずなのに、
「こうしたらこう見られるかな」って、
周りの目ばかりを気にするようになって、
いつだって誰かに要請された振る舞いが「正解」になる。
やりたいことはできなくなって、
言いたいことは言えなくなって、
中身はみんな違うはずなのに、
表向きはみんなおんなじ金太郎飴、
「列を乱していないか」って、
24時間監視されているうちに、
「正解」はその幅を狭めていって、
最後には一つしかなくなってしまう。
「おかしい」って気が付いているはずなのに、
「おかしい」とは言えなくなって、
気がつけば知らずのうちに、
家畜のように飼育されているのだ。
「飼育」されないためには、
「子供の心」を手垢がつかないように保管しておかないといけない。
私はもう手遅れ、
汚れてしまったようだ。
だけれども、
「汚れてしまった心」で生きていくしかない。
縛られることによって得られる自由、
「大人」になることで享受するものは小さくない。
それなしでは生きてはいけないくらいだ。
子供は大人になりたがる。
その希望は生きている限り嫌でも叶う。
だけれども、
大人が子供に戻りたがったところで、
それを叶えることはできない。
人類が「知恵の実」に手をつけてしまったように、
一度手にしたものを捨てたところで、
元に戻ることはできないのだ。
「知ってしまった」
「文明」ばかりが発達して、
人は欲望を抑えて飼育されながら生きていく。
「姪」と「甥」
その姿を見ていて、
可能なうちは無垢でいて欲しいと願う。
せめて、無垢でいられるうちは、
無垢でいて欲しいと願う。
大人の保護にありながらも、
子供の心は自由なのだ。
子供たちの無垢な心に触れながら、
そんなことばかりを考えている。