アドラー心理学を元に書かれた、
『嫌われる勇気』をはじめとして、
自己啓発本を紐解くとお題目のように書かれている言葉、
「おっしゃる通りです」
身に染みて感じる場面は多いから、
全面的に身を委ねたくなるけれど、
「いや、ちょっと待てよ」
捉え方を履き違えてしまうと、
ただ不確かな未来に怯えて、
「挑戦」することを恐れるようになってしまう。
世の中なんて、
コントロールできないことのほうが多い。
人は、それを「努力」することによって、
誤魔化しながら生きているのだ。
健康管理だったり、
勉学に励んだり、
あるいは人間関係を広げたり、
他者から信頼を得るために、
ギバーとして振る舞う行為なんかも、
これに当たるだろうか。
「人生をコントロールできている」
そうやって、
「コントロールしている」気になって、
心を安定させようとする。
別にそれが悪いわけではない。
裏を返せば「コントロールできないこと」
世の中に溢れている数々の不確定要素たち、
それに対するアプローチとして、
「努力」は最もポピュラーで、
自分を納得させるための優れた手法なのだろう。
「これだけ頑張ったんだから」
「ここまでやれば悔いはない」
人は運を天に任せるために、
「努力」を「理由」に変えるのだ。
だから「コントロールできないこと」
それに対するアプローチを間違えてはいけない。
「可能な限り善処する」
その上でどうにもならなければ、
あとは「手を放す」しかないのだ。
「課題の分離」っていうけれど、
それにしたって、
「はじめから無関心を決め込む」わけではない。
善処した上での「手放す」に「固執しない」
それが自己啓発本なんかで説かれる、
「こだわらない」ということ、
結局、人は「頑張っていない」と、
自分で自分を認めてあげられないのだ。
本人は「頑張っている」とも感じていないで、
周りから見たら「頑張っている」ように見える。
そういう努力の仕方が理想だと思う。
だけれども、
私はそこまで達観できていない。
自意識過剰なものだから、
「頑張っている自分」が好きなのだろう。
「はぁはぁ」と息を荒くしながら、
「頑張っている自分」に興奮するナルシストだ。
「コントロールした気になる」
今はそれに気が付きながらも、
そこに自尊心を委ねて、
「その気になって」
自分を気持ちよくさせていればいい。
プラセボでいいのだ。
人生なんて終わってみないとわからないもの、
積み重ねてきた経験というものは、
多くの場合で良質な判断材料になる。
「何事も経験」その通りだと思う。
コスパばかりに囚われてさ。
貴重な「経験の機会」を逃していたら世話はない。
「ここまでやったんだから」
最後にそう思うことができれば、
おそらく人生に「悔いはない」のだろう。
自分を「努力」で誤魔化しながら、
私は今日も生きている。