私の脳が「合理化」に支配されていた時の話、
「今の私」になる「前の私」の話だ。
ひょんなことから、
友人と「安楽死」について話す機会があった。
「事前に同意さえ取れていれば、
意思表示をできなくなった時点で安楽死させてもいいのではないか」
これが私の見解だった。
「意思表示のできない状態」
これに当たるだろうか。
それに対する友人の回答、
「同意を取るって言うけどさ。
事前に取った同意が今その時にも有効だと言えるのかな。
意思表示のできない状況でも、
もしかしたら本人は幸せかもしれないよね」
当時は社会的合理性などを振りかざして、
あまり腑に落ちない答えだったけれど、
今ならば実感する。
確かにそうだ。
外から見たら不幸で哀れで、
手を焼いて迷惑をかけられていたとしても、
本人の内面はわからない。
なんてったって、
まともに「意思表示」ができないのだから、
安易に人が人の命を絶つことを肯定してしまったら、
主に宗教を使って人類が築き上げてきた倫理観は崩壊してしまう。
命の価値が軽い時代から、
命の価値の重い時代へ、
そうやって人類は前に進んできたのだ。
それを後退させることがあってはならない。
人が人であるための条件、
そこにそのすべてが詰まっているのだから、
「命は大事だ」
それは疑いようのない事実、
誰もがそれを共通認識とすることができる時代、
人類はそんな素晴らしい文明を獲得した。
だけれども、
「命の使い方」
そのことにもっと目を向けるべきなんじゃないのかな。
「生死」の話になると、
私は何度もこのことを書いてきた。
終わりを迎えるその瞬間、
私は「心からの満足」をもってそれを迎えたい。
ある意味では「死」を恐れているのかもしれない。
だから少しでも「きれいな形」で、
その時を迎えたがっているのかもしれない。
そのために、
私は「私が嫌いになるような行動」をせず、
できるだけ誠実であり続けたいと思い、
生を紡いでいるのかもしれない。
「今日も一日ちゃんと生きられた」って、
「自分らしく生きられた」って、
その充実感を積み重ねることが「生きる」ってこと、
自分の身に、
いつ何が起こるかわからないのだ。
その「積み重ね」以外に、
「心からの満足」をもって、
最後の時を迎える術はないのかな。
だから私は今日も生を紡ぐ。
身近な問題として直面したら、
そんなきれいごとは言えないのかもしれない。
だけれども、
「意思表示」のできない人だって、
必死に一日を紡いでいる。
その人が周りに与える影響には、
きっと何か「真理」のようなものが隠されている。
「命は大事だ」
そういう方向に進んできた人類、
そのテーゼに守られてきた人類、
だからこそ、
大きな問題としてではなく、
身近な問題としても、
それを守らなければいけないんじゃないのかな。
「今の私」はそう思う。
人の命が数字に変わる時代、
身近な問題としての「命の大切さ」
今のお偉いさんたちにはさ。
そういう視点が足りないんじゃないのかな。
だから人のことを数字にしか見えない。
あらゆる問題の本質はそこにあるのかもしれない。
人と人とが直接触れ合うことの少なくなった世界、
何度も書いているけれど、
画面の向こう側にいる人は、
自分と同じ弱くて脆い生身の人間、
そのことだけは忘れずにいたい。