相手の「知らないこと」を馬鹿にすることで、
自分を相手の上に置きたがる。
そういう自尊心の満たし方、
あまりにも浅はかで「下の下」と言わざるを得ない。
きれいな五角形、
そんなレーダーチャートを描く人生など存在しないのだから、
人の心というものは、
どこか歪な形をしているものなのだ。
興味を持つ分野に対して、
知識をため込むのは当たり前、
環境に伴い、
必要に迫られて知識をため込む。
そんなケースもあるだろう。
周りは関係ない。
心地良い「時の流れ」に身を任せて生きていくこと、
それが幸せな生き方なのだ。
必要以上に「知らないこと」に囚われて、
「知っていること」が正義だなんて、
誰かの評価に価値判断基準を委ねるから、
心が安定しなくなる。
知らないことは知っている人から聞けばいい。
「好意の返報性」
こちらが好意的に接するならば、
多くの場合は好意が返ってくる。
下心があるならばその限りではないけれど、
素直に謙虚に教えてもらえばいい。
そして教えてもらったら、
心からの感謝を伝えればいいのだ。
見栄に縛られて、
そんな簡単なことができないから、
おかしなことになる。
私は「すべての人から学ぶことはある」と信じている。
知らないことを話していたら、
未就学の姪にも教えてもらうし、
面白そうな内容を話している人がいれば、
掘り下げて教えを乞うことも多い。
自分一人で触れられる情報なんてたかが知れている。
触れていたとしてもその時は、
「興味のアンテナ」に引っかからないこともある。
だから謙虚に誠実に人懐っこく、
かつ「学びに対して貪欲である」ことが、
人付き合いで大切なことなんじゃないかな。
私はとんがっている人が好きだ。
そして痛い人が好きだ。
逆に「こうあらねばならない」ということに縛られる、
量産型を目指す金太郎飴のような人に興味は湧かない。
誰しも変なところがあるはずだから、
「もっと変わったところを見せてよ」って思う。
そこに人としての魅力があるのだ。
周りに度し難い迷惑をかけないレベルならば、
少し困ったことにさせられるくらいなんでもない。
「あなたのおかしなところ」をもっと見せてよ。
私の人付き合いのスタンス、
世界はまだまだ私の知らないことで満ち溢れているのだ。
そして人というフィルターを通すことで、
ろ過された部分には魅力が詰まっている。
世界のことを知るために、
私は人間関係を広げているのかな。
そもそも「情報共有」というものは、
ホモ・サピエンスが生存競争を勝ち抜くために編み出した効率の良い手段だ。
人類としては、
個々の「興味の方向」は違えば違うほど良い。
世の中には変な人がたくさんいて、
だからこそ人類は生き残ってきた。
そう考えると、
変人が世界を救うのだ。
今のウイルスにしたってそう。
変人万歳!変態万歳!
おっぱい星人である私の、
女性の胸に蓄えられた脂肪に対する興味が、
世界を救うこともあるのかもしれない。