人はなぜ「作品」に感情移入するのか。
その答えとして思い浮かぶもの、
「疑似体験」
人は「誰かの人生」に触れることで、
自らの知見を広めることを欲しているのだ。
いわば「純粋な知的好奇心」
そして突き詰めれば、
「不確実な未来に向けての生存本能」
そういうものが、
心を突き動かすのかもしれない。
人生というものは「不確実」だ。
次の瞬間に何が起こるかわからない。
人は無意識のうちにそのことを知っているから、
知識を集めることで「不確実な未来」に対応しようとする。
人も動物だ。
生存本能に突き動かされて生きている。
ホモ・サピエンスが道具を使い、
知識をため込むようになった淵源は、
おそらくそこにあるのだろう。
だから多くの知見を共有して、
生存確率を少しでも上げようとする。
それが人の「本能」なのだ。
命を脅かされることが少なくなってからは、
「知識」を「芸術」と呼ぶようになり、
「生きるための手段」は「娯楽」に転じていく。
人は刺激を求めて、
「誰かのストーリー」に惹かれるようになる。
その「ストーリー」が自らに降りかかる。
そういう可能性もゼロではないのだと、
心のどこかで期待して、
それを「生きる活力」に転じている。
前置きが長くなった。
ここ最近の私、
自粛となったものだから、
サブカルに触れる時間が増えている。
主に「漫画」と「アニメ」だ。
作品を一通り鑑賞した後に、
その作品を評価している自分に気づく。
その行為は「答え合わせ」
自分が歩んできた「ストーリー」と、
作品に描かれた「ストーリー」
一致する部分が多ければ「好き」となるし、
そうでなければ「好き」とはならないかもしれない。
人は「自分の価値観」と照らし合わせて、
「作品の良し悪し」を評価しているのだ。
だから爆発的大ヒット、
それをもたらすためには、
「時代に沿う」というだけではなく、
「人間の本質」を突いたテーマが必要なのだろう。
「よくできているな」って、
そう思う作品が増えた。
その印象を考察してみると、
最近の「漫画」や「アニメ」はどこか文学的なのだ。
人のニーズに合わせて、
表現の仕方は変わっていくのかな。
社会に大きな影響を与えるような文学作品は、
ここ最近出てきた記憶がない。
近年のベストセラーは、
生活術やビジネス術を扱ったものが多い。
そしてそれらは昔ほど爆発的に売れることは少ない。
「知識のコモディティ化」
言い回しは違っても、
どこか昔の焼き直しなのだ。
だから「表現の仕方」
人々はそっちの方に刺激を求めているのかな。
かつては社会に対して、
大きな「刺激」を与えていた「文学作品」
その表現方法が「活字」から「絵」や「映像」に変わった。
今の大手の編集者なんか、
みんな「サブカルマニア」だ。
もちろん作家の創造性あってのものなのだろうけれど、
「これでもか」というくらいに知識をため込んだ、
そんな「サブカルマニア」監修のもとで出来上がる作品たち、
「よくできている」わけだ。
友人の友人の話だから眉唾だけれども、
ある大手出版社の編集者は「取材」と称して、
あらゆる芸術に触れる機会を自由に持つことができて、
その費用は全て経費として落ちるらしい。
そうやってどんどん知識をため込むのだ。
まさに「知の泉」とでも言えるだろうか。
『進撃の巨人』は、
編集者と作者が二人三脚というのは有名な話だ。
『鬼滅の刃』にしたって、
終盤の「凄み」や展開の膨らませ方なんかは、
おそらく映像化を見越した編集の意図があるのだろう。
漫画を読んだだけで、
「これが映像化されたらすごいことになるな」と、
ワクワクするような戦闘シーンが続いた。
爆発的なヒット作の裏には、
「編集者」の担う役割が大きいように思う。
「編集者」という名の「知の泉」たち、
作品テーマは作者に委ねられるのだろうけど、
その中で「どうしたら売れるのか」
そういうプロデュースをしているのだろう。
だから作品の質は底上げされる。
その反面で、そこか似通ったものになる。
先に書いたけれども、
「知識のコモディティ化」
今の子供たちが精神的に大人びているのは、
文字通り「よくできた」
「漫画」や「アニメ」の影響が強いと感じる。
だけれども、
手を変え品を変え表現方法を変えたところで、
それにも限界はある。
『ダイの大冒険』の岩を斬る修行が、
『鬼滅の刃』のパクリだと言い出す無知な子供たち、
作品が増えるほどに表現は重なっていく。
リソースはどんどん枯渇していくのだ。
「人間性」のアップデートよりも早く、
「技術」がどんどん進化していく。
サブカルの行き着く先はどこになるのだろうか。
ただただ「ループ」を繰り返すだけなのだろうか。
人の生存本能に端を発し、
「芸術」から「娯楽」に転じて、
形を自由自在に変えていく。
さて、どこに辿り着くのだろうか。
私はそれが楽しみでならない。