ここ最近記事を書いていて思うこと、
「文章に気持ちが乗っかっていない」のだ。
私は「反骨心」を糧にするタイプ、
加えて「努力依存症」の「努力中毒者」だ。
だからクソみたいな目にあって、
それを糧にして記事を書き続けてきた。
おそらくその時期は、
文章に「気持ち」が乗っかっていた。
支離滅裂であっても、
読んでいて心に響くものがある。
手前味噌だが「いい文章」を書いていた。
だけれども今の私、
間もなく記事数が1000に届くくらいだから、
「書くこと」が当たり前になってしまったのかもしれない。
何の装飾もない無骨な文字たち、
私のブログははっきり言って読みづらいだろう。
それを承知でこのスタイルを続けてきた。
凝れば凝るほどに、
「続けること」のハードルが上がるから、
なるべく簡単に、シンプルに、文字だけで、
私は私の心を綴ってきた。
「文章の魅力」
「情報」としてではない。
ただ「文章」としての魅力、
それを醸し出すためには、
きっと、文章に「心を乗せること」が不可欠だ。
文章に乗せられた心、
それに感応して心が動かされる。
直接会わなくても、
心と心が触れ合うから、
人は感動するのだ。
「心の叫び」
私にはきっと叫びたいことがたくさんあった。
たくさん、たくさんあった。
だからここまで続けてこられた。
だけれども今は、
不平、不満はたくさんあれど、
「叫びたいこと」ってのは、あまりないのかもしれない。
どちらかと言えば囁きたい。
そして囁かれたい。
「特定の誰か」に向けて、
心からの「愛の言葉」を囁きたい。
そして、
「ささやか」でいい。
それに応じてくれる小さな小さな声、
そんな不確かなサインを聞き逃さずにいたい。
「私の文章は私のもの」
そう思っていたけれど、
私は私の文章をささげる相手を探しているのかな。
あいにく「特定の誰か」
そういう相手には巡り合えていないけれど、
書き続けたことに意味はあると思う。
文章や言葉に心を乗せること、
そんなシンプルだけれどもとても難しい、
そういう習慣を身につけることができたのだから、
心が乗っからない。
いつまで経ってもそういう状態ならば、
きっと私がブログを続ける意味はないのだろう。
ここ最近の文章の魅力のなさは、
私が一番感じている。
「魅力のある文章」
表現の巧拙ではない。
心が乗っかっているのか。
そして乗っかった心が読む人に伝わるのか。
苦しみでも怒りでも憤りでもいい。
そういう「心」が伝わってくるもの、
それを「魅力」と呼ぶのだろう。