「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「魅力ある文章」とは?

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ここ最近記事を書いていて思うこと、

「文章に気持ちが乗っかっていない」のだ。


私は「反骨心」を糧にするタイプ、

加えて「努力依存症」の「努力中毒者」だ。


だからクソみたいな目にあって、

それを糧にして記事を書き続けてきた。


おそらくその時期は、

文章に「気持ち」が乗っかっていた。


支離滅裂であっても、

読んでいて心に響くものがある。

手前味噌だが「いい文章」を書いていた。


だけれども今の私、


間もなく記事数が1000に届くくらいだから、

「書くこと」が当たり前になってしまったのかもしれない。


何の装飾もない無骨な文字たち、


私のブログははっきり言って読みづらいだろう。

それを承知でこのスタイルを続けてきた。


凝れば凝るほどに、

「続けること」のハードルが上がるから、

なるべく簡単に、シンプルに、文字だけで、

私は私の心を綴ってきた。


「文章の魅力」


「情報」としてではない。

ただ「文章」としての魅力、


それを醸し出すためには、

きっと、文章に「心を乗せること」が不可欠だ。


文章に乗せられた心、

それに感応して心が動かされる。


直接会わなくても、

心と心が触れ合うから、

人は感動するのだ。


「心の叫び」


私にはきっと叫びたいことがたくさんあった。

たくさん、たくさんあった。

だからここまで続けてこられた。


だけれども今は、

不平、不満はたくさんあれど、

「叫びたいこと」ってのは、あまりないのかもしれない。


どちらかと言えば囁きたい。

そして囁かれたい。


「特定の誰か」に向けて、

心からの「愛の言葉」を囁きたい。


そして、

「ささやか」でいい。


それに応じてくれる小さな小さな声、

そんな不確かなサインを聞き逃さずにいたい。


「私の文章は私のもの」


そう思っていたけれど、

私は私の文章をささげる相手を探しているのかな。


あいにく「特定の誰か」

そういう相手には巡り合えていないけれど、

書き続けたことに意味はあると思う。


文章や言葉に心を乗せること、


そんなシンプルだけれどもとても難しい、

そういう習慣を身につけることができたのだから、


心が乗っからない。


いつまで経ってもそういう状態ならば、

きっと私がブログを続ける意味はないのだろう。


ここ最近の文章の魅力のなさは、

私が一番感じている。


「魅力のある文章」

表現の巧拙ではない。


心が乗っかっているのか。

そして乗っかった心が読む人に伝わるのか。


苦しみでも怒りでも憤りでもいい。

そういう「心」が伝わってくるもの、


それを「魅力」と呼ぶのだろう。