「愛着障害」やら「男尊女卑依存症」
新しいグループが蔓延っている。
この手のものは次から次へと湧いてくるから、
ある種の流行り、
そう言えるのかもしれない。
人は「病気」に名前を付けたがる。
自分の症状が分からないと不安だからだ。
「あっ、自分はこれだ」ってやつ、
そこにカタルシスを求める。
自分はこのグループに所属していて、
こういう治療をすればよくなる。
そういう安心が欲しいのだ。
加えて名前がついていれば、
周りからの理解を得やすい。
「私は○○なんです」って伝えられるだけで、
自分に「居場所」があるように思えるのだ。
自分の状況を社会的に認知されていることに安心する。
だから安心してニートでいられる。
そういう話を聞いたことがある。
一言「ニート」だと伝えさえすれば、
あとは察してもらえるのだ。
私の「童貞」も同じことなのかもしれない。
物心つく辺りで、
人は「アイデンティティ確立」のために、
他人とは違うものを追い求める。
何でも自分でやりたがる。
何でも知りたがる。
「自分」という名前のフィルターを形作るために、
色んなものをそのフィルターに通してみる。
そうやって「好き嫌い」や「善悪」
そういう基準が生まれるのだ。
それがひと段落すると、
自分を色んなコミュニティと紐づけたがる。
コミュニティでのふれあいの中で、
自分の作り上げたフィルターの精度を試すのだ。
その中で求められる「役割」や「立場」
相手との関係性を模索する中で、
パズルのピースの用にハマっていく。
そうやって「居場所」を作っていく。
だけれども、
どう頑張ったってどこにもハマらない、
「自分」と言うピースの形、
どこをどうすればハマるのだろうって、
試行錯誤を繰り返すうちにようやくたどり着く、
「人とは違う」と言うことを売りにしたコミュニティ、
どこかに感じていた違和感、
それを解消してくれるカタルシス、
「生きる意味」を示してくれたという感動に魅せられて、
やがて、その虜になる。
人は誰かに理解してもらわないと、
自分がこの世に存在していていいのかわからないから、
だから自分を世界につなぎ留めておくために、
色んな糸を体に巻き付けていく。
そのうちに自分に何を巻き付けたのかもわからなくなって、
身動きが取れなくなっていく。
「理解されなくていい」だなんて強がっていても、
その強がりの回数だけ強く「理解されること」を求めている。
突き詰めてみたらさ。
「自分」は「自分」
それ以外の何物でもないんじゃないのかな。
色んな肩書を身につけて、
「理解されたい」とアピールしたところで、
肩書が多すぎたら何者なのかわからない。
「理解されたい」と強く願いすぎて、
「理解されない」方向へと進んでいく。
なんとも虚しいものだ。
私は私に「30代童貞こじらせ男」というラベルを付けた。
そしてそのラベルに紐付けて毎日頭の中を書き連ねている。
だけれども、
リアルな私は微塵もそういう姿で生きてはいない。
だからわからなくなる。
私は何を求めていて、どうなりたいのか。
わからなくなるのだ。
おそらく私が私につけたラベルは、
もともと自虐の意味が強かったのだろう。
「こんなにも満たされない私」
そういうものを演出するためのラベルだ。
だから私は「かわいそうな私」を綴ってきた。
ある種、自分で自分を「かわいそうで満たされない」と、
思い込ませていたのかもしれない。
それにより憎しみは強くなった。
どんどん深くなった。
「自分で自分に同情するなんて下劣な奴のすることだ」
きっとその通りなのだろう。
その言葉に辿りついても、
その言葉を実践することは何百倍も難しい。
人の承認欲求というものは、
なんとも厄介なものだ。
手に入れたいと願うほどに、
手元からするりと落ちていく。
信頼を得るためには莫大な労力が必要なのに、
それを失うことは容易い。
さらに一度失ってしまうと再び取り戻すことは困難だ。
結局は「自分の価値」は、
どこまで行っても自分で決めてやるしかないのだ。
いくら言葉を形作っても、
それを実践することは難しい。
誠実と不誠実の狭間で揺れる。
他人に対する誠実さと、
自分の人生に対する誠実さ、
それが相反する場合に、
私はどのように、
どの類の欲求を満たすべく行動すれば良いのだろう。
人の欲というものは、
なんとも厄介なものだ。