「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「所属しすぎること」で身動きが取れなくなる

f:id:tureture30:20210219063255j:image

 

HSP」やら「発達障害」やら、

愛着障害」やら「男尊女卑依存症」


新しいグループが蔓延っている。


この手のものは次から次へと湧いてくるから、

ある種の流行り、


そう言えるのかもしれない。


人は「病気」に名前を付けたがる。

自分の症状が分からないと不安だからだ。


「あっ、自分はこれだ」ってやつ、

そこにカタルシスを求める。


自分はこのグループに所属していて、

こういう治療をすればよくなる。


そういう安心が欲しいのだ。


加えて名前がついていれば、

周りからの理解を得やすい。


「私は○○なんです」って伝えられるだけで、

自分に「居場所」があるように思えるのだ。


ニートは「ニート」と言う言葉が存在していて、

自分の状況を社会的に認知されていることに安心する。

だから安心してニートでいられる。

そういう話を聞いたことがある。


一言「ニート」だと伝えさえすれば、

あとは察してもらえるのだ。

 

私の「童貞」も同じことなのかもしれない。


物心つく辺りで、

人は「アイデンティティ確立」のために、

他人とは違うものを追い求める。


何でも自分でやりたがる。

何でも知りたがる。


「自分」という名前のフィルターを形作るために、

色んなものをそのフィルターに通してみる。


そうやって「好き嫌い」や「善悪」

そういう基準が生まれるのだ。


それがひと段落すると、

自分を色んなコミュニティと紐づけたがる。


コミュニティでのふれあいの中で、

自分の作り上げたフィルターの精度を試すのだ。


その中で求められる「役割」や「立場」

相手との関係性を模索する中で、

パズルのピースの用にハマっていく。

そうやって「居場所」を作っていく。


だけれども、

どう頑張ったってどこにもハマらない、

「自分」と言うピースの形、


どこをどうすればハマるのだろうって、

試行錯誤を繰り返すうちにようやくたどり着く、

「人とは違う」と言うことを売りにしたコミュニティ、


どこかに感じていた違和感、

それを解消してくれるカタルシス


「生きる意味」を示してくれたという感動に魅せられて、

やがて、その虜になる。


人は誰かに理解してもらわないと、

自分がこの世に存在していていいのかわからないから、

だから自分を世界につなぎ留めておくために、

色んな糸を体に巻き付けていく。


そのうちに自分に何を巻き付けたのかもわからなくなって、

身動きが取れなくなっていく。


「理解されなくていい」だなんて強がっていても、

その強がりの回数だけ強く「理解されること」を求めている。

 

f:id:tureture30:20210219063350j:image

 

突き詰めてみたらさ。

「自分」は「自分」

それ以外の何物でもないんじゃないのかな。


色んな肩書を身につけて、

「理解されたい」とアピールしたところで、

肩書が多すぎたら何者なのかわからない。


「理解されたい」と強く願いすぎて、

「理解されない」方向へと進んでいく。

なんとも虚しいものだ。


私は私に「30代童貞こじらせ男」というラベルを付けた。

そしてそのラベルに紐付けて毎日頭の中を書き連ねている。


だけれども、

リアルな私は微塵もそういう姿で生きてはいない。


だからわからなくなる。


私は何を求めていて、どうなりたいのか。

わからなくなるのだ。


おそらく私が私につけたラベルは、

もともと自虐の意味が強かったのだろう。


「こんなにも満たされない私」

 

そういうものを演出するためのラベルだ。

だから私は「かわいそうな私」を綴ってきた。


ある種、自分で自分を「かわいそうで満たされない」と、

思い込ませていたのかもしれない。


それにより憎しみは強くなった。

どんどん深くなった。

 

村上春樹ノルウェイの森

「自分で自分に同情するなんて下劣な奴のすることだ」

 

きっとその通りなのだろう。

その言葉に辿りついても、

その言葉を実践することは何百倍も難しい。

 

人の承認欲求というものは、

なんとも厄介なものだ。

 

手に入れたいと願うほどに、

手元からするりと落ちていく。

 

信頼を得るためには莫大な労力が必要なのに、

それを失うことは容易い。

さらに一度失ってしまうと再び取り戻すことは困難だ。

 

結局は「自分の価値」は、

どこまで行っても自分で決めてやるしかないのだ。

 

いくら言葉を形作っても、

それを実践することは難しい。

 

誠実と不誠実の狭間で揺れる。

 

他人に対する誠実さと、

自分の人生に対する誠実さ、

 

それが相反する場合に、

私はどのように、

どの類の欲求を満たすべく行動すれば良いのだろう。

 

人の欲というものは、

なんとも厄介なものだ。