私は割と「効率厨」だ。
基本的には合理的なことを好み、
それが「行動規範」として占める割合は高い。
世の中はどんどん便利になっていき、
手軽に人とつながることができるようになった。
その反面で、簡単に人を切ったり、
あるいは切られたりすることが可能となる。
だから人は上辺だけの関係に疲れ切って、
どこか「精神的なつながり」を求めているのだ。
「誠意の伝え方」
ある意味では、
代用できない自らの資産を提供すること、
「お金」だと「けれん味」が効きすぎているから、
誰もが人生にベットしている「時間」を差し出すことがそれに当たるのかな。
言語化してみるとどこか不誠実だけれども、
人は多くの場合「賭けた時間」に比例して、
その対象への愛着を増していく。
そして多くの場合、
それは相手にも伝わる。
前置きが長くなったが、
「あらゆることが手軽に済む時代」
だからこそ「手軽に済ませない」
そのことが効いてくる。
「誠意」として伝わるのだ。
「無駄なこと」と切り捨ててきたもの、
例えば「手紙」だとか「手作りの贈り物」
便利であればあるほどに、
「ここまでしてくれるのか」って、
いい意味で期待を裏切る武器になる。
相手に何かをしてもらうためには、
相手の心を動かさなくてはならない。
だから利害関係を除いた時に、
「いい意味で期待を裏切る」必要があるのだ。
「便利な時代」だからこそ感じる、
「無駄なこと」の大切さ、
私は色々なことを最適化しようとしすぎているのかな。
どこか割り切っているきらいがある。
誠実で在りたいと思うけれども、
精神的な意味で誠実ではないのかもしれないな。
無機質で血の通っていない繋がり、
「不要なこと」は排除しようと努めるからそうなる。
「無駄」だと思うことにも、
「無駄」はないのだ。
世界はどんどん無機質なほうへと進んでいく。
みんながみんな「和」を第一に据えて、
みんながみんな「判を押したように」互いを尊重して、
みんながみんな「同じ答えを導き出す」のだ。
「無駄」の中に宿る生命の芽吹き、
人が人であるためには、
「無駄を愛すること」が必要なのかもしれない。