「自分であることに必死な時代」を生きる

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ブログを書き続けていると割とあるのだけれども、

私が書いていることと同じようなことを、

同じ時期に投稿している人に出くわす。


特定の作品に対する批評ならば、

流行り廃りのあるものだけれども、

そうではなく「精神面を記載した内容」が被るのだ。


まさか未来人のブロガーはいないだろうから、

少なくとも「同じ時代」を生きている。

そしておそらく「同じ国」で生きている。


だから同じようなことを考えて生きているのは、

珍しいことではないのかもしれない。


人は「不幸」を感じると、

あたかも「自分が世界で一番不幸なのだ」と思いがち、


「足りない部分」にばかり目を向けて、

「満たされている部分」は棚に上げておく。


どんどん負の方向にばかり感情を引っ張られて生き、

下手をするとダークサイドへと落ちてしまう。


最近、映画『ジョーカー』を見たのだけれども、

あんなに救いのないパターンはあまりないだろう。


人生のどこかに「満たされている部分」があるのに、

それに目隠しをして生きるのが人間なのだ。


「ヒーロー」にはなれないからって、

せめて「悲劇の主人公」を気取ってみる。


そこに「居場所」を見出して、

自分を「特別」だと思いたがるのだ。


シンクロニシティ


人の行動規範ってものはさ。

個体でそう大きく変わるものではないのかもしれない。


同じ時を同じ場所で生きていれば、

同じようなことを感じて生きているのだ。


ある意味ではそこに「救い」があって、

そこには「救い」はない。


人って生き物は、

わかりあえるようでわかりあえない。


アイデンティティ」というものは厄介なものだ。


「個」としての自己主張、

そういうものがどんどん肥大化していく。


「生きること」に必死だった時代は、

ある意味「自我」なんかなくても幸せに生きられた

 

だけれども、

今は「自分であることに必死な時代」だ。


「生きる」だけでは事足りずに、

特に若い世代は「生きる意味」を模索している。


もしかしたら「ニュータイプ」なのかな。


「志」に生きて、その「志」よりも命が軽かった時代から、

悲惨な戦争を経て「命」が何よりも大事だと説かれる時代、


その時代にも限界が来ているのかもしれない。


自分が高齢者になったらどう思うのかはわからないけれど、

なんだかそこまで長生きしたいとも思わない。


若者の話を聞いていても、

少なからず「希死念慮」を抱きながら生きている人が多い印象だ。


ある意味では「memento mori

「死」を近くに感じながら生きているのかもしれない。


生まれながらにして情報の海に産み落とされて、

その情報に溺れながら生きているからさ。


「人生なんてこんなもんだ」って、

若いうちから達観してしまうんだよ。


どこか「満たされない」って思いを抱えながら生きていて、

人の役に立てば「満たされる」だなんて、

胸にぽっかりと大きな空洞を抱えながら、

「満たされない」「満たされない」ってこの世を彷徨っているのだ。


その姿はさながら「生ける屍」


生体活動は続けているけれど、

「生きている実感」を求めて彷徨う「生ける屍」


今はさ。

そういう時代なんじゃないのかな。


一時の快楽に溺れてみたり、

社会貢献活動に従事してみたり、


ベクトルは真逆でも、

「生きている実感」を求めている点では同じ、


そういう時代を生きるためにはさ。

バカにならないといけないのかな。


誰から何と言われようとも譲れない信念、

そういうバカみたいなものに命を預けるしかないのかな。


「仲間」でも「家族」でもいい。

「命」を懸けるに足る何か。

そういうものに出会うことが唯一の解決策なのかもしれない。


ゾンビが命を取り戻して、

その目に輝きを取り戻した時、

きっとその人生は本人にとって「価値あるもの」になるのだろう。


「満たされない」

「満たされない」

「満たされない」


ほら、

今日もそこら中に「満たされないゾンビ」が徘徊している。


そうやって指をさすその手もまた腐っていた。

私も「満たされないゾンビ」


「満たされる日」は来るのだろうか。