「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

意外と「生きる意味」について思い悩んでいる「ミレニアル世代」

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時代が加速したからだろうか。


ネットワークの発達によって、

様々な人間模様を疑似体験できるようになったからか。


昔はせいぜい「人づてに聞いた話」

世界の広がりはその程度だった。


世界の距離は近づいて、

情報の真偽はともかくとしても、

世界にはありとあらゆる「経験」が溢れている。


「ミレニアル世代(今の25~39歳くらいを指すらしい)」


我々の世代は物心ついたころから

情報の海に溺れて生きてきたのだ。


「プレゼンの神様」と呼ばれるMicrosoft社の澤円氏の話によると、

現代の我々が1日に触れる情報量は、

平安時代の人の一生分、

江戸時代の人と比べても1年分とのことだ。


それだけ多くの情報をインプットしては使い捨てていく。

そうやって繰り返し何度も他人の経験に触れていくのだ。


だからある意味では、

部分的ではあれど1人の身で何人分もの人生を生きていることになる。


「子供が子供のままではいられない社会」


これまでに何度かそういう表現を使って来たけれど、

その病理はここにあるのかもしれない。


「死に戻り」


少し前だと『All You Need Is Kill』が有名だ。

魔法少女まどかマギカ』なんかもそうだ。

近年だと「リゼロ」が代表的だろうか。


何度も死んでは生まれ変わって、

人生を繰り返していく。


情報の海に溺れることで、

疑似的にそれと近い経験を今の人たちはしているのだ。


鮮烈なものであるほど、

人は重要な記憶として脳に定着させる。


私も2度ほど経験しているけれど、

「死ぬような思い」の経験値は計り知れない。


「リアル」な体験と比べれば劣るだろうけれど、

「疑似体験」の回数を重ねればある意味では「達観」にたどり着く。

その過程の中で人は成熟されていく。


昔の人と比べてさ。

現代人は随分と人生の早い段階で先に進んじゃっているんだよ。


その良し悪しは別としてさ。


疑似体験を繰り返してきたものだから、

「足元の課題」にあまり鮮烈なものがないからってさ。

「死」の方向に軸足置いてみたりなんかしてさ。


総じてみれば生活が豊かになって、

「生きる」ために必死になる必要がない。

だから「生きる意味」が分からなくなる。


戦中・戦後の話なんかを読むとさ。

一日を生きるのに必死だった。

だから「生きていること」に感謝があった。


だから「漠然とした不安」になんて、

目を向ける暇なんかなかった。


話が逸れてきたな。

修正しよう。

 

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「ミレニアル世代」


きっと色々なことを「疑似体験」することで、

「わかった気」になって生きているのだろう。

子供のうちに多くの体験を「疑似的に」摘んでしまうのだ。


だから「リアル」でその体験を迎えたときに、

「こんなものか」ってなる。


幸か不幸か。

先取りしすぎているのだ。


だから「無感動」になり、

「感動」が「生きる意味」につながらない。


「感動」よりも、

「レールを外れない」ことが大事なのだ。


お年寄りの話を聞いていると、

「こんな経験をできるなんて長生きしてよかった」って、

そういう言葉を聞くけれども、

我々が同じ立場になったときに同じ言葉が出てくるのかな。


私は出てこない気がする。

 

なんだか「生きすぎて」

もはや生きることに疲れている気がする。

 

それって「幸せ」なことなのだろうか。

 

いろいろな経験をかき集めて、

この世の真理だとかそんなものの扉に手をかけるところまで行って、

生きることに疲れて果ててしまって、

 

生活が豊かになるほどに、

心は先細ってしまう気がするのは私だけだろうか。

 

誰かの人生にばかり想いを馳せてさ。

自分の人生を生きているのかどうかすらわからない。

 

人と比べてばっかりでさ。

「自分らしさ」という正体不明の魔物に追いかけられている。

それって幸せな人生なのかな。


話が広がりすぎて収拾つかなくなってきたな。


「生死」に話になると筆が止まらない。

私の興味関心が向いている証拠か。


まとめよう。


「ミレニアル世代」は情報の海に溺れながら、

あらゆる経験を「疑似体験」することで、

ライフステージを先取りしすぎて「無感動」になっている。


だから「リアル」でライフステージを迎えても、

「感動」が生まれにくく「生きる意味」を実感できない。

こうして「生きる意味」について思い悩んでいる。

「それって幸せな人生なのかな」


私の主張はそんなところか。


ともあれ、

私は「感動」しながら生きたい。


人と比べても「情報」に触れているほうだと自負しているけれど、

ただの「疑似体験」だけで「わかった気」になりたくはない。

 

「情報」に触れるのは構わない。

だけれども、そんなものはただの「情報」に過ぎない。


私は「痛み」も「苦しみ」も、

人生の主体者として受け止めたい。


それがきっと、

「生きている」ということだから、