戦闘物の作品なんかでよく言われるセリフ、
「人を殺すってことは自分が殺されるかもしれないって覚悟が必要なんだよ」
それって物語の中だけのことではなくて、
現実でも同じことが言えるんじゃないのかな。
わかりやすいものが「批判」だ。
情報量が飛躍的に増えたものだから、
人は自らの存在価値を示すために、
その「情報」に対して評価をすることが癖になっている。
「良いと思う」
「悪いと思う」
「共感する」
「非難する」
どこか脊髄反射的に批判を続ける生き物、
どうやら人間は「進化の過程」を経て、
そのような生き物へと変貌を遂げたらしい。
だけれどもさ。
何かを「批判する」ということは、
その「批判」もまた「批判される」ということだ。
オンライン上に「批判」を上げてしまえば、
わかりやすくテーブルに乗っかることになる。
そしてその「批判」がズレていたら、
今度は自分が格好の攻撃材料になる。
誰かを好んで「批判」する人ほど、
カオナシの世界でヒーローになりたがる、
そんな自分の価値を信じてあげられていない人だから、
少し攻撃されただけで激高する。
その姿がまた滑稽なものだから、
ますます嘲笑の的となり心は折れていく。
リアルでの満たされない感情をオンラインで満たそうと試みた結果、どこでも満たされないことを知る。
そうやって卑屈な人間のいっちょ出来上がりだ。
なんて惨めなんだろうね。
誰かを後ろから撃とうと銃口突き出すその瞬間には、
誰かの銃口に狙われているかもしれないのだ。
そういうことを理解すること、
見えないところからコソコソと、
誰かに銃弾を打ち続けて、
たまに当たったらその快感の虜になる。
そこに「居場所」を求めてさ。
それでしか「自分の存在価値」を見出せなくなる。
巧妙に「批判されること」から逃げてきたからさ。
自分が撃たれるだなんて夢にも思っていない。
そしていざ撃たれてみると狂ったように暴れだす。
「色々なことを批判してきた俺様を批判するだなんて何様だ」ってさ。
だけれども初めから同じテーブルに乗っかっているんだよ。
彼だって、彼女だって、
「あなた」だってさ。
同じテーブルの上に乗っかっているんだよ。
「批判」ばかりしすぎると、
そんな簡単なこともわからなくなる。
誰が見ていなくても「自分」は見ているのだ。
形に示すことなく心で思うに留めていたとしても、
自分が共感した意見に対する「批判」は、
自分が「批判」されたように感じるもの、
100%肯定される意見なんてないのだから、
情報に触れて心を動かされる限りは、
どこかで自分の気持ちは批判の的となるのだ。
「逃げ場はない」
「批判」してしまったら最後、
その世界からは抜け出すことができない。
もはや手遅れだ。
人はそうやって生きていくしかないのかな。