「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

人は「好き嫌い」を拭い去ることはできない

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私が会議の進行を務める場合に心掛けていること、

「なるべく多くの意見を吸い出す」ということだ。


一見すると「声の大きい人」の意見を採用したほうが効率はいい。

少なくとも「その会議」は表面上は丸く収まるだろう。


「声なき声は無きものにされる」


私は世界を相手に仕事をしたことがないから知らないけれど、

「グローバルスタンダード」はそういうものらしい。


だけれども、

人は「居場所」を失うことを恐れる。


そして「時間を割いたもの」に対して、

その「時間に見合うだけの対価」を求める。


そう考えると、

ステークホルダーが一堂に会した場面で、

「自分の意見を主張した」という、

その行為が持つ意味は大きい。

加えて、発言者自身の「主体性」を引き出す意味でも有効だ。


ここからは若干の打算も含まれるが、

人の「居場所を与えてくれた人」に対する信頼感はことのほか大きい。


できるだけ多くの意見を吸い上げることは、

「信頼感」という形でそれを促す「進行」に帰ってくる。

そうなると次からはやり易い。


人はバイアスをかけて生きている。

「嫌いな人」の意見は正しくても受け入れがたいし、

「好きな人」の意見は好ましいもの、


結局は、無意識レベルの「好き嫌い」で判断するのだ。

そこから理性を働かせて「合理化」を進めていくけれど、

どこかで「好き嫌い」は残っている。

その微妙な「好き嫌い」ですべてが台無しになることもあるのだ。


「好き」に偏りすぎても困るけれど、

「嫌われる」ともっと困る。


ベストセラー『嫌われる勇気』

精神的に「課題の分離」を進めることは結構だけれども、

少なくともビジネスの場面では表面上は繕う必要がある。


私は「不誠実」に過剰反応する傾向があるので、

態度に出やすく反省することが多い。


「好き嫌い」

私にも大いにある。


以前読者の方から評された、

「人並外れた理性の持ち主」


おそらく私はそういう傾向にあるのだろうから、

どちらかと言えばフラットに物事を判断する気質だと自認している。

それでも「好き嫌い」はある。


そして「好き」は表に出さないくせに、

「嫌い」には寛容ではない。


「嫌い」になる人は多くはないが、

「嫌い」と判断すると精神的には関係を断つ。


だから必要最低限は取り繕ったとしても、

そこから先は隠すつもりがない。


そしてそれくらいでいいと思っている。

「嫌いな人」と必要以上に関わる必要はないのだ。


ところがこれが、

「存在を認識するのも嫌だ」となってくると話は変わってくる。

その対象の周辺にまで「嫌い」を広げていって、

環境が「嫌い」に汚染されていく。


いくら表面上は取り繕ったところで、

「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」なのだ。


そして「好きだったものを嫌いになる」

このパターンが最悪だ。


プラスからマイナスへの急降下、

落ち着くべきところで歯止めが効かず、

液化を大きく通り越して「憎しみ」へと凝固していく。


私の抱える「嫌い」はこの類だから始末に負えない。


だけれども仕方がない。

割り切ることにしている。

ブログにこのことを書いている時点で割り切れていないのかもしれない。


「嫌いなものは嫌い」

それは仕方のないことなのだ。