「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「努力」の方向性

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生きているだけでも「努力」は必要だ。


「頑張っていない」


そうやって卑下してはいても、

人は心のどこかで「自分の努力」を認めていて、

それを誰かに「認めて欲しい」と願っている。


それぞれ程度の差はあるけれど、

「努力していない人」なんていないのだ。


だから鍵となるのはその「方向性」だ。


その「努力」の先にあるものが、

果たして「理想」へとつながっているのか。

その点はよくよく吟味する必要がある。


「ブレないこと」が正しいこともあれば、

「方向転換」が正しいこともある。


先のことなどわからないのだ。


だから「大事なこと」は、

「自分で選び取っているか」ということ、


敷かれたレールを歩いていてもいい。

だけれども、そこを「主体的に歩けている」のか。


一世一代の大勝負に出てもいい。

だけれども、その先何があっても「人生に責任をとれる」のか。


結局のところはさ。

「主体的に生きているかどうか」なんじゃないのかな。


どれだけ努力をしていても成果が出なくて、

人生に嫌気がさしているのならば、

きっとそれは「成果」に振り回されている証拠、


「主体的」に生きているようでも、

その実「主体的」ではないのだ。


暗闇の中を手探りで進むような時期があったとしても、

手足を縛られて身動きが取れない状態だとしても、

「生きること」に主体的でありさえすれば、

きっとどこか「喜び」が湧き上がってくるはず、


進んでもいいし、

進まなくてもいい。

時には「後戻り」が必要なこともある。


だけれども、自らの意思でそれを選び取っているのか。

それ以上に大事なことはないんじゃないのかな。


「努力」の方向性、


どれだけ先に進んでも、

そこに「喜び」がないのであれば、

「理想」へとつながる実感がないのであれば、

もしかしたら「誰かに人生をやらされている」のかもしれない。


色々な立場や責任があるけれど、

可能な限り、自分を解放してあげて、

「喜び」につながる道を模索する必要があるんじゃないかな。


「生きること」に喜びがなければ、

何のために生きているのかわからなくなってしまう。

 

もっと「主体的に生きたい」

おそらくその先に「幸せ」があるはずだから、

 

「自分の選択に責任を持つ」

そのことだけは忘れずにいたい。