自分がどうしようもなく「無価値」に思えてくる。
特に自粛となってからは「真面目な人」ほど孤独を感じやすいのだろう。
「言いつけをしっかりと守る」
そういう人生を歩んできたものだから、
社会の方針に対して従順なのだ。
「少しくらいは大丈夫」って考えでさ。
街に溢れている人たちの姿を見ては憤りを感じて、
反面、しばらく友人と会っていないものだから、
改めて予定を入れることも億劫に感じる。
「予定がないこと」を、「人生が先に進まないこと」を、全部コロナ禍のせいにしてさ。
「今は時期が悪い」だなんて口癖のように宣う。
人の粗ばかりを探すことで、
何も行動を起こさない自分を慰める。
「おとなしくしている自分」は正しいんだって、
「楽しそうなあいつらは非国民だ」って、
そこに「居場所」なんかを求めてさ。
結局は臆病なだけなんでしょ。
本当に信念をもって自粛しているならば、
周りのことなんか気にしないはずだ。
こういうご時世でも自分の「居場所」を見つけて楽しく過ごしているはずだ。
行動が制限されていたってさ。
「何も変えないこと」を選択しているのは自分自身、
「孤独」ってものはさ。
「行動して失敗した先にあるもの」
もしかしたらあったはずの「幸せ」に思いを馳せて、
失敗した自分を許せずにいるから「孤独」を感じるのだ。
何も失っていない人は「孤独」を感じないし、
誰かと比べない人は「孤独」を感じない。
失敗したかもしれないけれど、
一度は立ち上がって「挑戦した人」にしか、
「孤独」ってものは訪れないんじゃないのかな。
「寂しさ」「惨めさ」「喪失感」
そのどれもが「挑戦者」であった証、
だから存分に噛み締めればいい。
そこから出てくる「苦い汁」の味を存分に味わえばいい。
結局は「孤独」と言うものを飼いならさないと、
「満たされること」などないのだ。
誰かの評価に怯えながら生きて、
誰かと比べて劣っていることに惨めさを感じて、
誰かと一緒にいないと不安で不安で仕方がなくて、
いつまでも「孤独」に怯えて生きるようになる。
だから「孤独」を強く感じている時こそ、
「孤独」を飼いならすためのチャンスなのだ。
その日暮らしでチャランポランに生きている人達よりも、「孤独」を噛み締めながらもその中に「居場所」を見出した人の方が魅力的に映る。
せっかく生きているのだからさ。
どこまでも主体的でありたい。
「孤独」であることに対しても主体的でありたい。
ネガティブな感情にばかり引っ張られないで、
長い目で見て人生を謳歌したいものだ。