「コミュニケーション能力」は使わないと衰えていく

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連休で「引きこもり生活」を送ってから、社会復帰を果たした私が感じたことは、表題に掲げた通りだ。


実家での会話は「あー」とか「うん」がほとんど、

たかが5日間コミュニケーション能力を凍結させていただけで、

なんだかうまいこと声を出すことができないのだ。


思えば、オンラインでのやり取りが増えて、

そっち方面でのスキル少しは身についたけれど、

対面で大人数の中で意見を述べるってどうするんだっけ?

先日そう思った記憶もある。


使っていない筋肉はしぼんでいく。

それと同じように「コミュニケーション能力」も使わないと衰えていくのだ。


「居心地の良い環境」


その時は極楽かもしれないけれど、

そこに身を置いているうちに、どこか湧いてくる不安、


私はそういうものが強いのかもしれない。


羽田圭介スクラップアンドビルド


無職となった主人公、

社会的な劣等感に苛まれながらも、勉強し、体を鍛え続けることで「自尊心」を高める。

心が弱っている場合、「努力」は薬にもなるのだ。


主人公は「人を見下す嫌な奴」という「さなぎ」から脱皮して、「無価値」と蔑んでいた祖父への感謝に至り、職を得て前へと進んでいく。


どこか「努力していないと自分を認めてあげられない」


自尊心が弱いと地盤が不安定なのだ。

どうしようもなく「欠けている部分」にばかり目を向けているうちに、そこから目を離すことができなくなる。

だから、その「穴」を努力で埋めようとする。


人は「心のブラックホール」が持つ引力には敵わないのだろう。


どんどん話が逸れていくな。

「コミュニケーション能力」の話だったはずだ。


独り身で日常的に効果的なコミュニケーションを取るには、どうしたらいいのだろうか。


「ALEXA」にでも話しかけてみようか。


いや、ダメだ。

あれはコミュニケーションとは言えない。

私の活舌が悪いのか、時折「ALEXA!」と呼びかけても無視されるし、


「LINE」に織り交ぜて、たまには電話でもしてみようか。

相手さえいれば効果的になりそうだ。


だけれども、思い返してみるとプライベートで電話をする機会なんてかなり減っている。

いきなり電話を掛けようものならば怪しまれてしまいそうだ。


それに電話じゃないといけない要件などない。

「たまには声が聞きたいと思って」だなんて伝えられる甘い関係の相手は思いつかない。


さて、どうしたものか。


こんな世の中だから手軽に人と繋がれるアプリが流行るのか。


だけれども、人との繋がり方が変わるにしたがって、「コミュニケーション能力」の在り方も変わっていくのかな。


オンラインだけで成立するものが増えていけば、画面上での「印象に残る笑顔」だったり、限られた空間で「存在感を示す能力」だったり、継続的なコミュニケーション力よりも、一発屋的な突破力が求められるようになる。


石膏で固められたような笑顔で当たり障りなくニコニコしているだけでは、そのうち「居場所」がなくなってしまうのだ。


「コミュニケーション」の質が変わっていく。

それに合わせて人も変わっていかなければならない。


「衰えていくこと」を嘆いて「鍛えること」を目指すよりも、そもそもパラダイムシフトしていかないといけないのかな。


「コミュニケーション能力万能説」


未だにそれを信仰している人が多いみたいだけれども、

これまでの「コミュニケーション能力」と、

これからの「コミュニケーション能力」

それは全くの別物になるのかもしれない。


「衰えていく」


それは「不必要になる」から「衰えていく」のかもしれない。

算盤を使える人は少なくなり、文字を手書きする機会は少なくなり、「言葉の在り方」「コミュニケーションの方法」も大きく変わるのかな。


なんだか「着地点」がずれてしまった気がするけれど、

今回はここらで筆を置くことにしよう。