「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「許す」と言う選択をした場合の感情の着地点

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始めは相手が一方的に悪かったとしても、

感情がもつれてしまった場合、

時を経れば経るほどに「どちらか一方が悪い」と言うことはなくなる。


言わば「許せない自分」

そういう類の罪悪感が顔を出すのだ。


「許す」


それは簡単なことではない。

度し難い迷惑をかけられて、傷つけられて、

一生消えない傷を負うこともある。


それでも「許す」


「許せない自分」と向き合っていくうちに、

なんだか自分のほうが悪いんじゃないかって思えてくる。


「ユルセナイ」


顔を出した罪悪感を押し戻すように、

相手に対する怒りを燃やしていくうちに、

その感情は心の奥底にこびりついて、

やがて「憎しみ」という名のプラークに変わる。


先細の歯ブラシで丹念に磨いたところで、

なかなか落ちてはくれないのだ。


「許す」と「ユルセナイ」を繰り返していくうちに、

心はどんどん疲弊していく。


「許す」ことのほうが大変だから、

心はやがて「憎しみ」の引力に吸い寄せられて、

「ダークサイド」へと落ちていく。


こうしてアナキン・スカイウォーカーは、

ダース・ベイダーになってしまったのだ。


「許す」には覚悟が必要、


自分に生まれた「罪悪感」を糧にして、

相手に「歩み寄りの姿勢」を見せる必要がある。


もしくは究極に「損得勘定」に身を委ねることか。

「許す」「許さない」に思考のリソースを割くことはどう考えても無駄だ。

だから「損得勘定」で「許す」

その後は相手に一切何も期待しない。

最も無駄のない対処法だろうか。


そうやって割り切れればいいけれど、

なかなかそうもいかないのが「感情」というもの、


やはり多くの場合、

「許す」には大きな苦しみを伴う。


苦しんで苦しんで苦しみぬいた末に、

「自分にも悪いところがあった」

そこにたどり着いて相手に対する情状酌量が生まれる。


だから「許す」ためには「罪悪感」が必要なのかな。


「怒り」と「罪悪感」のバランスが等価に近づいてはじめて、

人は「許すこと」ができるのかもしれない。


そう考えると「心」というものは「不確か」なように見えて、

紐解くと実は合理的なものなのかもしれない。


「感情の出所」に思いを馳せて、

冷静に立ち止まってみると、見える景色は変わるのだ。


「感情的になった方が負け」

 

「許す」ためには、冷静であることが不可欠、

「相手に対する憐れみ」と自分の中に生み出された「罪悪感」

そういうものが緩衝材となって、初めて「許す」ことができるのかな。