始めは相手が一方的に悪かったとしても、
感情がもつれてしまった場合、
時を経れば経るほどに「どちらか一方が悪い」と言うことはなくなる。
言わば「許せない自分」
そういう類の罪悪感が顔を出すのだ。
「許す」
それは簡単なことではない。
度し難い迷惑をかけられて、傷つけられて、
一生消えない傷を負うこともある。
それでも「許す」
「許せない自分」と向き合っていくうちに、
なんだか自分のほうが悪いんじゃないかって思えてくる。
「ユルセナイ」
顔を出した罪悪感を押し戻すように、
相手に対する怒りを燃やしていくうちに、
その感情は心の奥底にこびりついて、
やがて「憎しみ」という名のプラークに変わる。
先細の歯ブラシで丹念に磨いたところで、
なかなか落ちてはくれないのだ。
「許す」と「ユルセナイ」を繰り返していくうちに、
心はどんどん疲弊していく。
「許す」ことのほうが大変だから、
心はやがて「憎しみ」の引力に吸い寄せられて、
「ダークサイド」へと落ちていく。
こうしてアナキン・スカイウォーカーは、
ダース・ベイダーになってしまったのだ。
「許す」には覚悟が必要、
自分に生まれた「罪悪感」を糧にして、
相手に「歩み寄りの姿勢」を見せる必要がある。
もしくは究極に「損得勘定」に身を委ねることか。
「許す」「許さない」に思考のリソースを割くことはどう考えても無駄だ。
だから「損得勘定」で「許す」
その後は相手に一切何も期待しない。
最も無駄のない対処法だろうか。
そうやって割り切れればいいけれど、
なかなかそうもいかないのが「感情」というもの、
やはり多くの場合、
「許す」には大きな苦しみを伴う。
苦しんで苦しんで苦しみぬいた末に、
「自分にも悪いところがあった」
そこにたどり着いて相手に対する情状酌量が生まれる。
だから「許す」ためには「罪悪感」が必要なのかな。
「怒り」と「罪悪感」のバランスが等価に近づいてはじめて、
人は「許すこと」ができるのかもしれない。
そう考えると「心」というものは「不確か」なように見えて、
紐解くと実は合理的なものなのかもしれない。
「感情の出所」に思いを馳せて、
冷静に立ち止まってみると、見える景色は変わるのだ。
「感情的になった方が負け」
「許す」ためには、冷静であることが不可欠、
「相手に対する憐れみ」と自分の中に生み出された「罪悪感」
そういうものが緩衝材となって、初めて「許す」ことができるのかな。