「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「熱量を向けられるもの」の存在が人生にとって最重要だということ

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あまりにも「停滞感」が強いものだから、何か人生を動かしている実感が欲しくて、今現在、私は自ら「風」を起こして、「人生」という名の「風車」を少し回しだした。

微風かもしれないけれど、思いのほか「風車」への影響は大きいようで、当の私が辟易するくらいに回転は勢いを増すばかりだ。


そうすると、なにやら「今の自分」と言うものを客観視する必要が生まれる。

さんざん「メタ認知」をしてきたつもりだけれども、どこかバイアスをかけていて、「満たされない」と言うことばかりに縛られて事に気が付く。


「今の自分の恵まれている部分」

数えればキリがないくらいにたくさんあるのだ。


私は私の人生に対して何が「不満」なのか。

バイアスを取っ払って冷静に見つめ直してみると、冒頭に挙げた「停滞感」と言うものが妙にしっくりと当てはまる。


私は「女性」に対して不満があるのではなく、

「仕事」に不満があるのではなく、

「コロナ禍」自体に不満があるのではなく、

いや、もちろん不満がないわけではないのだけれども、その根底にあるのは「停滞感」なのだ。

 

こんなブログを1000日以上も続けているくらいだから、私は「ナルシスト」で自分大好き人間なのだろう。

 

だから私の不満は「私の外」にあるのではなく「私の内側」にある。

私は「私の人生が進んでいないこと」に対して「不満」を感じているのだ。

それを色んなものに転嫁してさ。

「満たされない」「満たされない」って書き散らしている。

 

そんなもの当たり前だ。

生きていれば「不満」なんてものは嫌でもついてくる。

私は漬物が苦手だけれども、カレーを頼むと決まって福神漬けが添えられてくるのと同じようなものだ。

松屋で「なんでカレーを頼んだだけなのに、福神漬けがついてくるんだよ!」って喚いていたら、ただの「ヤバいやつ」だ。


そう。私はブログを通して、そういうことを書いている「ヤバいやつ」なのだ。


それはさておき、「風車」を動かしてみて、いくらか「停滞感」が解消されてくると、なんだか今まで抱えていた問題がどうでもよく見えてくる。


まるで、出会ったら「この世の終わり」みたいに私のことを避けてくる職場の女性のことは気にならなくなったし、私の方も極力存在を認識しないようにしている。


おそらく私は「熱量を向ける先」を探していたのだろう。

 

それで「都合の良い敵」がいたものだから、意固地になって「正義マン」を気取って彼女を標的として「私に人生の惨めさの象徴」に仕立て上げる。

もちろんトラウマ級の不誠実さを許すことはできないけれど、それにしても何年も前の話だ。

はっきり言って私の人生に感じる「停滞感」とは全く別の話である。


「仕事」にしても、どこか私の掌だけで収まるような「物足りなさ」を感じている。

何か他に「熱量を向けられるもの」があれば、リスクが少ないという点では十分なものだとは思うのだけれども、


「熱量を向ける先」があるのか。

それが何よりも重要なのだ。


「夢中になっているもの」があれば、その他の些末なことは気にならなくなる。

何か一つでもそういうものを持っているだけで、それが「生きがい」になる。


私と同年代の多くの人は、概ね「平均」に沿ってライフステージを進めている。

家庭を持っていて、子供がいる場合もあるだろう。

だから、プライベートでのリソースを「向ける先」があるのだ。


だけれども私にはそういうものがない。

だから私は「満たされない」のだろう。


30歳を過ぎてから私が「熱量を向けてきた先」の変遷をたどると、

パニック障害」→「ブログ」→「婚活」→「スマホゲーム」となるだろうか。


「資格取得」や「読書」や「音楽」など細かいものを挙げるとキリはないが、

それぞれ「手を付け始めた時期」はドーパミンがドバドバで充実していたように思う。


その時は「足りないもの」のことなんて気にならない。

「夢中になれること」があるからだ。


そういう時ってのはさ。

なんだか日常も充実してくるのだ。


些細な動作一つ一つにも身が入るし、どこか一つ一つが「未来につながっているような実感」を得ることができる。

人間、何かに夢中になっていないと生きてはいけないのかもしれないな。

 

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別の切り口で論じてみる。

 

ドラマ『コントが始まる』

これがまた面白い展開になってきた。

 

芸人という夢を追い続けて28歳になった3人の若者たち、

一向に売れる気配はないけれど、ファンだと言ってくれる人はいる。

悶々としながら解散を発表するけれど、これまでの10年が無駄になってしまうのではないかという不安から揺れる思い。

「進むも地獄、辞めるも地獄」

決断をした彼らに待ち受けるものは何だろうか。

 

夢中になれるものがあれば、その期間は先のことなど何も考えなくても生きていける。

だけれども、それが報われなかった先にある人生、

 

努力は報われるとは限らない。

それでも、その先の人生に責任を取らなければならないのだ。

自分の人生の責任を取ったらくれるのは自分だけ、

どんなに親身に話を聞いてくれたって、どんなに一緒に活動してきたって、最後は他の誰も責任を取ることはできないのだ。

 

「生きる」ってことはさ。

そういうことなんだよ。

 

だから選択肢を広げるために、やるべきことはやり続けなければならない。

その上で「熱量を向けられるもの」を見つけなければならない。

 

あまりにも味気のない人生を生きていても辛いし、先の見えない人生を生きていても辛いのだ。

 

「熱量を向けられるもの」は確かに重要だ。

だけれどもそれだけでは生きては行けない。

人生の全てを振り切ってなりふり構わなければ話は別かもしれないけれど、人が「社会的な生き物」である限りはそういうわけにはいかない。

 

現代人は「生きる」ということに多くを求めすぎなのかな。

動物であることを忘れて、どんどん動物であることから遠ざかって、肥大化した自意識に支配されて「精神的な存在」としての在り方を追求する。

 

昔はもっとシンプルに満たされてきたはずなのにね。

「生きる」ってことが難しくなりすぎてはいないだろうか。