「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「こなす」感覚が強い

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「やるべきことをやり続ける」


一度メンタルをやってしまってから、

私が私に課したテーマの中でも大きな意味を持つものだ。


長期的な視座に立つとどうしても「不安」に苛まれる。

だからとにかく「今やるべきこと」

それをクリアし続けることで「生」をつないできた。


そう。私は人生を「こなしてきた」のだ。


何か気乗りしない課題があると、

「何時間後には終わって解放されるな」だとか、

「無難にこなせれば問題ないか」と予防線を張ったりして、

半分、逃避行動に身を委ねている。


こうなる「前の私」は、課題があると「絶対に成功させる」と息巻いていた。

そしてその結果に対しては、良くも悪くも感動があったのだ。

悔しくて泣いたこともあれば、嬉しくて仲間と抱き合ったこともあった。


今は「とりあえず」予防線を張ることから始めて、

なるべく気持ちの振れ幅を小さくすることに勤めて淡々と課題をこなす。


それはそれで息巻くよりは冷静さを保てるから、

「しくじること」も少なくなるのかもしれないけれど、

これでは「熱意」があったとしても「熱意」は伝わりにくいだろう。


課題を終えた後も達成感は少ない。


私は「主体的」に人生を生きていないのかな。

時折「虚しさ」がこみあげてくる。


何かを評価しながら生きる癖がついてしまった。

その評価対象は「自分」も例外なく含まれる。


どこか客観的に自分を見て、

誰か別の人の人生を生きているような感覚、


「こなす」ことを繰り返してきた結果、

私はそんな感覚に支配されているのだろうか。


ただ「こなす」だけ、

自ら首を突っ込んで忙しくして浮かび上がる課題、

そういうものに対してもどこか「前向きではない」のだ。


「貯蓄」と同じだ。


「将来に向けてお金をためておけば安心だろう」って、

多くの人はそういう理由で「IDECO」なり「積み立てNISA」だったりを始める。


私の「こなす」に至るロジックはこれと同じ、

「こういう経験を重ねておけば将来の役に立つだろう」って、

動機はそんなところにあるのだ。


そんな「保険」的な「貯蓄」的な人生、

今の私の生き方にはそういう表現がしっくりくる。


先の「不安」を解消するためにどんどん先取りして、

目の前の「こなす」を繰り返しているのだ。


いったい私は人生に何を期待しているのだろうか。


「行動」や「感情」に理由が必要になってしまった。

細胞が瞬時に反応して「喜び」や「幸せ」に至るルートを選び取る。

私の細胞からはそういう機能が消失してしまったのかな。


どうしたら「満たされるのか」わからない。

だから、とりあえず「不安の種」を摘むことを続けている。


「前向き」なように見えて「後ろ向き」

だから「満たされること」はないのだろう。


私にとっての「前向き」

それはどういう行為を指すのだろう。


「心から楽しいと思っている時」だろうか。

振り返ってみてここ最近そんな時があっただろうか。

それが私の人生が色あせている何よりの証拠だ。


「婚活」に励んでいた時は、

パートナーができれば満たされるかもしれないと思っていたけれど、

今ではそんな気もしなくなっている。


「何か楽しいことはないだろうか」


そうやって彷徨っているうちに寿命を終えてしまうのかな。


「末期」だと思うのは、休日になっても全く嬉しくないのだ。

やることがないから、


私はどこまで先を見据えて人生をこなしていけばいいのだろうか。

どこまでやったら安心できるのだろうか。

どこまでやったら・・・