あまりにも「仕事」に人生を預けすぎると、
定年退職後に早い段階で認知症が進行するだなんて、
そんな考察もあるみたいだ。
なんだかわかるような気がする。
仕事がひと段落してからテレワークに入ったものだから、
手持無沙汰な時間が続いていた。
プライベートでも行動は制限されて、
ゲームをしたり、Amazonプライムを見たり、
同じことの繰り返しに飽きてしまった。
もともと私は「反骨心」で生きてきたタイプの人間だ。
加えて部活は体育会系だ。
「ボロクソ」にけなされたり、
「不甲斐なさ」に涙したり、
10代、20代はそうやって生きてきたように思う。
30代になってからの私、
そういう機会はめっきりと減ってしまった。
「自己正当化」がうまくなったのだろう。
「将来に対する諦めの気持ち」が増したというのもあるだろうか。
当たり前のことだけれども、
私は前よりも私の人生に期待をしていない。
だから「傷つくようなこと」は敢えて避けて、
「できる範囲」で人生を回すようになる。
その「できる範囲」の境界線は、おそらくこれからどんどん縮まっていく。
「既得権益」さえ確保していれば、
それで十分に生きていけると考えるようになる。
そうやってどんどん自分を刺激から遠ざけてきたのだ。
だけれども少し状況は変わってきて、
ここ最近の私は意図して「緊張感」に身を晒している。
そうすると「退屈」を感じていたはずの日常にまで張り合いが出てくる。
「不甲斐なさ」を突きつけられて、「力不足」を痛感して、
ただ「傲慢」になっていただけ、
そんな自分に気が付くのだ。
人は環境が固まってしまうと、
その中で最適な行動を取るようになる。
その繰り返しの中で「うまくやれるようになる」のだ。
それは当たり前のことなのに、
それによって「自分には能力がある」と勘違いする。
少し隣のグループに入ってみたら、
自分の力など「全く通用しないこと」も珍しくはない。
それだけ「色々な人」がいて「色々な世界」がある。
漠然と知ったつもりになっていても「外から覗く機会」さえあまりない。
少し覗いてみるだけで、世界は変わって見えるんじゃないかな。
「ぬるま湯」につかってばかりいたら、そこから出られなくなってしまう。
少しばかりのスパイスが効いているだけで、
同じものを食べていても「食」は進むようになる。
「味変」というものは必要なのだ。
意図して「緊張感」に身を投じるだけで、
充実した日常を送れるのであればこんなに楽しいことはない。
だけれども気をつけなければならない。
道を間違えたら刺激を求めるあまり「不倫」なんかへとつながっていく。
「刺激が欲しい」って人の気持ち、
なんだか少しだけわかったような気がする。