ブログでは何度も書いていると思うが、私は「合理主義者」だ。
日々、自らの関わることを合理化できないかと頭を働かせている。
だから「非合理的なこと」を強いられた時のストレスは大きい。
とにかく「無駄なこと」をしたくないのだ。
いや、「無駄」が学びになることがあるというのは理解している。
事前に「無駄だとわかっていること」をしたくはない。
と言う表現が正しいだろうか。
どれだけ効率が悪くても、
「黙って言われたとおりにしていたほうが楽」
世の中にはそういうことが多い。
変に意見を主張して軋轢を生むよりも、
大して手間がかからないことであれば甘んじて受け入れる。
そっちの方がよほど賢いのだろう。
だけれども、私にはそれが大きなストレスだ。
だから「必要のない作業」は「必要がありますか?」と確認するし、
「こうしたほうが効果的」と思うことがあれば、そう主張する。
主張することに「存在意義」を求めているわけではないから、
もちろん「感情的な面」まで考慮したうえで、
相手から「合理的な意見」が返ってくれば納得して引き下がる。
だけれども、大した理由はないと取れる返答ならば、持論を振りかざして「いかに無駄か」と語りだす。
客観的に見れば「めんどくさい人」だな。
私は「搾取されること」を恐れすぎているのだろうか。
そこにはきっと私の中での「自尊心の欠如」が浮き彫りになる。
自信がないから「人から不当に扱われたくない」という気持ちが働く。
要は「自分の価値」を誰かに委ねているのだ。
根本的な部分で「自分の価値」を信じることができれば、
些細なことを気にするはずがない。
「合理的」だろうが「非合理的」だろうが、
それを「決める役割」の人がいて、
その意思決定をとやかく言う必要はないのだ。
「大事なこと」は「自分の価値」を信じること、
その上で普段は「謙虚」で「堂々と」していればいいのだ。
組織というものは「多少の合理化」よりも慣例や建前を優先する。
「変わることによるリスク」を恐れているから、
「既得権益の確保」
なんだかそれが目的になっている人たちが蔓延りすぎて、嫌気がさしているのは私だけだろうか。
「非合理的なこと」に気がついているのに、それを無くしてしまったら「居場所を失う恐れ」がある。
そうやって「なし崩し的に」変わらず進んでいく。
日本という国の持つ性質なのかな。
そうやって取り残されていくのだ。
自分が責任者であるうちだけ「逃げ切れればいい」って、
その繰り返し、
ツケを払うのは誰なんだろうね。
食い物にされているのは誰なんだろうね。
そうやって求心力を失った組織は瓦解する。
気がついた時にはもう手遅れ、
競争力もなければ、自力で立ち直る術もない。
どこか「自分たちだけは大丈夫」ってさ。
人はそう思いたがる生き物なんだけど、
その根拠は「これまでも大丈夫だったから」では、
あまりにも杜撰ではないだろうか。
後悔は先には立たないのだ。