人は基本的に時間をかけた分だけ、その対象に愛着が湧くようになる。
だからその対象が「間違ったこと」だとわかったとしても、
都合よく解釈して、それを受け入れることができない。
そうして、その「間違ったこと」を「間違ったこと」だと頭の片隅では理解していながら続けるのだ。
それまで賭けた時間を無駄にしたくはないから、
それまでに賭けた労力を、気持ちを無駄にはしたくないから、
そうやってどんどん歯止めが効かなくなる。
「不都合な真実」
そういうものって世の中にはたくさん転がっている。
先進国繁栄の陰には、搾取される側の国があるし、
飽食の時代の陰には、飢餓に苦しむ子供たちがいる。
恋愛にしたってそうだ。
気持ちが強ければ強いほど、
長い時間をかければかけるほど、
「見込みのない相手」に執着を深めていき、
思いが叶わないとなると、その気持ちは途端に「憎しみ」に変わる。
「不都合な真実」に目隠しをし続けた結果、
無駄に執着ばかりが増していき、
取り返しのつかないところまで行ってしまうこともある。
人は一人で生きていくことはできないから、
「執着」を完全になくすことは難しい。
それこそ山にでもこもって、
ただ瞑想でもしながら生きるしかなくなる。
それでも食料や水への執着はなくなるかどうかわからない。
むしろそれをなくしてしまったら、
「生」への執着をなくすと同義だから、
何のために生きているのかわからなくなる。
しっかりと「自分の人生」を生きながら、
「執着」をなるべくしないように生きるにはどうすればいいのか。
「感謝」
この二文字に尽きるのかなと思う。
自分の今いる場所が、
自分がいま触れているものが、
自分の存在そのものが、
「当たり前」にあるものではないということ、
「不都合な真実」と向き合うことは大変な作業だけれども、
人は知らないところで何かを踏み台にして生きているのだ。
そのことに卑屈になる必要はないけれど、
「生」を全うするためには、
目の前に現れた「不都合な真実」から、
目を逸らしてはいけないんじゃないのかな。
「知ってしまう」
そのこともまた巡り合わせ、
吉本ばななさんが著書『哀しい予感』の中で、
主人公に語らせていた言葉、
「知らなくていいことなんて何一つない」
知らないことはたくさんあるし、
知り得ないことはたくさんある。
だけれども、
「知らなくてもいいこと」はないのだ。
その上で「知ってしまった」のならば、
それがどんなに「不都合なこと」であっても、
それと向き合うしかないのだ。
「不都合」であればあるほど、
どんなに忘れようとしても、
それはいつまでもついてくる。
そうしないと生きていけないから、
「自分の人生」を生きることができないから、
だから向き合うのだ。
それを自分の体に取り込んだうえで見る世界はまた、
これまで見えていたものとは全く違うものになる。
その繰り返しの中で、
人生というものは「深み」を増していくのかな。
「不都合な真実」
それは人生に課された宿題なのかもしれない。