今の私になる前の私は「無理の効く体」だった。
平日は働いた後にアフターで用事が続き、
休日に予定のないことが珍しいくらいだった。
「忙しい」ということに文句を言いながらも、
どこかそこに「生きがい」を見出していたのかもしれない。
だけれども、突如体が悲鳴を上げた。
いや、何度もサインを出していたのに気が付かなかっただけ、
夜中に腹痛で目が覚めてうずくまることはあったし、
満員電車で呼吸が苦しくなり倒れたこともあった。
それでも「一過性のもの」と判断して、忙しい日々を送っていた。
そして体が動かなくなったのだ。
いざ出勤しようとしたところで、
フラッシュバックする。
思い浮かんだ景色は「停電で電車に閉じ込められた時のこと」
時間にして数10分だっただろうか。
その時の私は何ともなかったけれども、
前にいた人がソワソワして呼吸荒く窓のあるドアにしがみついている。
なんだかその光景が頭に浮かぶと、
電車に乗ることが怖くなり立ち上がれなくなった。
そのまま職場に連絡を入れて午前中は休みを取る。
ひと眠りすると「大丈夫」と言い聞かせて午後からは出勤する。
その次の夜に後頭部が熱くなりピリピリする。
常に神経過敏な状態が続き、まともに寝ることができなくなった。
4ヶ月くらいはそういう状態が続いただろうか。
メンクリでの診断結果は「電車が怖い」という症状に引きずられたのだろう。
「パニック障害」だということだった。
「パニック発作」らしきものは何度か経験したけれど、
私の症状は一般的な「パニック障害」とは異なるように感じた。
どちらかと言えば「全般性不安障害」に近かったのだろう。
常に神経過敏で「些細なこと」に対する不安が消えなくなった。
それまでの私は「大雑把で細かいことは気にしない」
今よりも合理主義で「自分の気持ち」よりも「目的」を優先する。
そういう気質だったように思う。
「世界の見え方」が変わってしまった。
明確にそう思えた出来事だった。
「無理の効かない体」になってしまったけれど、
徐々に回復しているのか今に至る。
だけれども思うのは「無理の効く体」なんてものは存在しないのかもしれない。
「疲れ」や「痛み」を誤魔化し続けてさ。
体に鞭打つことが「無理が効く」ということならば、きっとどこかにしわ寄せが来るのだ。
私は体が出していたサインを「なんてことはない」と無視し続けてきた。
その反動で「無理の効かない体」に変わってしまった。
そういうことなのかもしれないな。
私は20代を生き急いでいたのかもしれない。
多くの貴重な経験をできたと思うけれど、
私の人生に備わる行動力の大半を既に使ってしまったのかもしれない。
30代はここまで「手放すこと」を学ぶ期間だったように思う。
それなりにビジネスでの成果は出して、資格もいくつか取得して、
無理が効かない中でも少ないリソースで淡々と「やるべきことをこなす」
そういう力は身につけられたのかもしれない。
運動習慣を身につけて、
食事には気をつけて、
ジムでガチな体作りに勤しんだ時期もあった。
そうやって私はここに辿り着いたのだ。
「無理の効かない体」
ここから劇的に「無理の効く体」に戻ることはないだろう。
そいつはもう私にとって一生付き合うことになる相棒なのかな。
しっかりケアして大事にしてやらないと、