『呪術廻戦』のキャラクターである七海健人、
作中で彼が主人公をたしなめる際に口にした言葉だ。
特異な経歴を持つ彼、
呪術師養成のための高等専門学校を卒業するも一般企業に就職、
「呪術師はクソだ」だけれども「サラリーマンもクソだった」
ふとした出会いから「自分に救える命がある」と感じ、
「同じクソならば適性のある方へ」と呪術師の道に戻る。
一見遠回りに見えるが、これが彼にとっての最短距離だったのだろう。
「経験してみないとわからないこと」はたくさんある。
人生はいくらでもやり直しが効くのだ。
「能力さえあれば」という「但し書き」が付くのだろうけれど、
話が逸れた。
「小さな絶望」について書こう。
作中では「好きだったコンビニのパンが生産中止になった」だとか、
「朝起きた時に枕についている抜け毛の多さ」というものを挙げている。
人は日常的に「絶望の虜」になっているのかもしれない。
ペシミスティックに浸ることで、
どこか「自分の人生」を生きている気になれるのだ。
「悲劇の主人公」
わかりやすい「居場所」だ。
人は「不幸を感じる」よりも「居場所がないこと」に耐えられない。
だから無くなった居場所を取り戻す努力を重ねる前に、
まずは安易に手に入る「悲劇の主人公」という「居場所」にすがる。
「何も進まない」くらいならば「絶望したい」
人という生き物はそんなドМな気質を持っているのかもしれない。
そうやって大人になる。
ある意味では「死」というのは人生の終着点、
そこに至るためには「生への執着」を手放す必要があるのだ。
そうやって大人になる。
「小さな絶望」を積み重ねてさ。
徐々に「生きる力」ってものをすり減らしていくのだ。
だから「大人になる」ってことは「死へと向かう」
そういうものなのかな。
「何も悪いことではない」
年を取れば、「手に入れる」比率の多かったフェーズから、
「手放す」ことの多いフェーズへと移っていく。
そうやって「納得のいく終わり」を伺うのだろう。
手放すことができなければ、
終わりが近づくにつれ「苦しみ」は増していく。
お金や地位や名声は、
向こう側にもっていくことはできない。
「手に入れたものを手放すこと」
そうやって身軽になっていくこと、
断捨離から得るカタルシスの正体はそこにあるのかもしれない。
それが七海健人のいう、
「小さな絶望の積み重ねが人を大人にする」
ということなのかな。
私はまだ自分では「手に入れることが多い」フェーズだと思っているけれど、
実際のところはわからない。
明日終わるかもしれないし、100歳を過ぎても続くかもしれないし、
人生がいつまで続くのかは、誰にもわからないのだから、