「社会」に対する解像度

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ある記事を読んでいて面白い言葉を見つけた。


今の若者は「社会に対する解像度」が低い。

リアルよりもバーチャルに接する機会が増えたものだから世界は逆転する。

「自分の所属する組織」や「関わる人たち」よりも、

「いつも見ている配信元の記事」や「毎日見ているYouTuberの意見」が力を持つのだ。


そうなってくると「社会」を肌感覚で感じることは難しくなる。

どこかデフォルメされたものとしかとらえられなくなり、

多分にバイアスをかけたモヤっとしたものを「社会」と認識することになるのだろう。


私が唱えるところの「パーソナリティが肥大化した時代」

どんどんそういう方向へと進んでいる。


「組織の一員であるという価値」は低下していき、

情報の海で溺れながら「自分らしさ」というものを模索する時代、

そのくせ、「誰かとつながっていたい」とこう思うのだから手に負えない。


個人に確立された「セカイ」は広がりを失い、どんどん先鋭化されていく。

「セカイ」を誰かに批判されると、それを守るために何をしでかすかわからない。

攻撃力ばかり増していき、相手の攻撃に対する耐性は紙ぺらのように薄くなっている。


それもこれもさ。

「自分で自分のセカイをつくる」ということの難度が高すぎるせいだ。


みんなと同じように生きていればよかった時代、

ある意味ではそっちの方が幸せだったのかもしれない。


レールの上を外れなければ「居場所」は与えられて生きていける。


今は「インフルエンサー」なるものが力を持ちすぎて、

天井は見えないくらいに高いところにあるけれど、

どこかそれを身近に感じていたりもする。


だから「リアル」に感じる現実感は希薄化していき、自分の置かれている現実の状況を疑うようになる。


軸足をどんどんバーチャルの方へとシフトして、現実は無気力に支配されていき「食いっぱぐれなければそれでいい」となっていく。


結婚、出産、マイホーム、寿退社、年功賃金、終身雇用、


長年かけてモデルケースを作り上げてきて、それを信仰していた日本人、

いつの頃からか「信仰していたはずのもの」は神々しさを失っていた。


ダイバーシティ、女性活躍社会、定年引上げ、


まるで「今まで信じていたものは全てウソでした」と言わんばかりに、論調はパラダイムシフトしていっている。


なんか典型的な「ライフスタイル」ってものがモヤっとしてきているんじゃないかな。


それもこれも「自分たちが逃げ切れればいい」ってさ。

先人たちの作り上げた社会構造を切り崩せなかったことに問題があるのだろう。


だから若者は未来に「期待」しなくなる。

 

「生きること」の難度は上がり続けて、「力をつけるしかない」と個を磨く人とそうではない人に二極化していく。


「教育」は金太郎飴製造機なのにさ。

「社会」に出たらいきなり「個性」を発揮することを求められる。


全て「自己責任」と言われればそれまでだけれども、敷かれたレールを信じて生きているだけでは行き詰る。

そんな世の中だ。


それくらいに「生きること」の難度が高い時代、

どこまで難しくなっていくのだろう。


「生きる」ってことはさ。

なんて難しいことなんだろう。