合理的、倫理的、常識的、
私の持っている物差しは、「みんなとは違う」と思いたかったけれども、気がつくとみんなと同じように形を変えていった。
だけれども、それでは納得いかないものだから、どこかその物差しの端っこに自分にだけはわかるような印をつけて、それを眺めては得意気になっている。
自分はそれなりにできる奴なんだって、妙なプライドをその印に込めて、自分を納得させるのだ。
「人と比べない」ってことはさ。
本当に難しいことだね。
私は「私らしく生きているつもり」になっていたけれど、どこかで誰かと比べては、優越感に浸ったり、劣等感を感じたりして生きているのだろう。
必要以上に周りのことを監視して、自分のことを監視して、リソース割くべきところを間違えているように思うけれど、社会で生きるためにはその「リソースの割き方」は間違っていないことも多いから厄介だ。
「成果をあげる人」が必ずしも評価されるとは限らない。
「好き嫌い」に支配された世の中だ。
だから嫌気がさした人たちは「ギバー」や「ティール組織」だなんて、「優しい世界」に想いを馳せるようになる。
「年功序列」なんてクソ喰らえってさ。
みんながみんな実力を発揮できる環境を構築しろってさ。
そんな要求は高まるばかりだ。
別にそれ自体は間違っていないとは思うけれど、そうなったらそうなったで大変なこともあるはず、
「環境が変わればうまくいく」だなんて考えは妄想に過ぎない。
結局は環境ではなくて自分自身なのだ。
頭でっかちにばかりなっていないでさ。
少しは自分の足で稼いでみたら良いんじゃないかな。
辛いこと、苦しいこと、泣くような思い出をたくさん積み重ねてさ。
その上で一定の成果を上げてから、主張したいことを主張するべきなんじゃないのかな。
社会は「使えない人」には厳しいもの、
それは構造上、仕方のない面もある。
だから、人は「誰かと比べること」に躍起になる。
だけれども、組織の中の序列なんてものは限られた権威でしかない。
どこにいっても通用する力を身につける。
目指すべきはそういうところだ。
色々と履き違えている人が多い。
誰かに媚びることで手に入れた居場所の価値なんて高が知れている。
それを手に入れるために人生をかけていたのに、その価値が大したことはないことに気がついた時にの絶望感、
それは計り知れないものがある。
自分で「居場所」を決めるためにはさ。
自分で「居場所を決められるだけの力」が必要だ。
メンターがいるならばそれを目指せば良い。
いなければ「昨日の自分」と比べてみれば良い。
そうやって、理想の自分ってものは形づくられるんじゃないかな。
とはいえ、どうしても人と比べてしまう面はある。
やはり、自分の存在を単体で肯定するというのはとても難しいことだ。
こうして自分を鼓舞するように書き連ねてきたけれど、私は私のことを私個人として単体で肯定できるようになるのだろうか。
他人の評価に振り回されない生き方をしたいものだ。