内定後の面談で企業の採用担当者から言われた言葉だ。
「ますをさんの言葉には意志を感じます」
「それは私が外向きの対応をしているからだろうな」と思いつつ、
「嬉しい言葉をいただいたな」とも思った。
言い換えれば、私は「私の言葉で話せている」ということ、
そういってもらえたように感じたからだ。
ブログではさんざん自分の内面を文章にしてきた。
おそらくそれが言葉にも表れているのかもしれない。
アウトプットを続けてきたことにより、
その精度は高まっていることを感じる。
物怖じすることなく自分の意見を主張して、
それに対するフィードバックにも意見を主張できる。
それってビジネスにおいてはかなり有効なスキルだ。
慇懃無礼に取られることもあるのかもしれないが、
私は極力丁寧に強く主張を伝える傾向にある。
そういうところが評価されたのかもしれない。
私は「成長フェチ」で「成長マニア」
「努力中毒」で「努力依存症患者」だ。
努力していないと自分を認めてあげられないのだ。
だけれども、そうやって続けてきたことに無駄はない。
3年近く毎日ブログを更新し続けるなんて、
はっきり言って狂気の沙汰だ。
私は私の中から溢れてくる言葉をとことん絞り出してきた。
「インプット過多」の時代において「アウトプット過多」になるほどに、
「同じようなことばかり書いているな」
そう思う時期が続いたこともあった。
それでも書き続けた。
その時の心情を書くことで自分の中に焼き付けて、
より濃く「生」を実感する。
それが私の「書く目的」だ。
私は私なりに真剣に自分の人生と向き合ってきた。
嫌となるほど自分の内面を客観的に考察し「自分」を理解しようと努めてきた。
その結果として「今の私」があるのだ。
私は「私の言葉」で話すことを望んでいる。
そして「私の人生に責任を持つこと」を望んでいる。
そういう思いが自然と「言葉」に現れるのだろうか。
処世術は一般化されて、
「うまく立ち回る人」はもはやステレオタイプ化している。
だから逆に「ちょっと生意気」くらいのほうが経営層には好かれたりもする。
私が「自分の言葉」を磨いてきたことは、
無駄ではなかったのかもしれない。
自分らしさを追求した先にあるもの、
よほど「社会性がない」ような方向に進まなければ、
おそらくどこかでそれは「社会のニーズ」とぶつかるのだろう。
組織への「過剰適応」へと進んでいた私、
一度、価値観を全て解体して再構築することで、
ようやく「自分の型」のようなものを手に入れたのだろうか。
メンタルをやってしまってから5年、
ブログを毎日更新し続けて約3年、
とても長い道のりだったように思う。