「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「読んでもらいたい記事」と「そうでもない記事」

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私は基本的に自分のために記事を書いている。


テーマは「私と世界との関わり方」

目的は「より濃く生きるため」

なんとも中二病臭さを感じる動機だ。


得たものは少なくないと感じている。

「興味のある事柄」や「日々の出来事」をすくい上げて文字に起こす。

その愚直な反復演習を毎日3年ほど続けてきた。


「書かずにはいられない」

「書かないと生きていけない」


たまに見かける言葉だけれども、私もおそらくその域に達している。

「ある種の病気」なのかもしれない。


さて表題の件、


そんな調子でブログを続けているものだから、

誰も得をしない「自分のためだけの記事」も多く投稿している。


現状を俯瞰して客観的に見た自分を考察する記事、

自分の内面から湧き出た言葉を拾い集めて形にするポエムのような記事、

完全に私しか得をしない書き物だろう。


もしそこに読者が「価値」を見出せるのであれば、

それは「共感」という代物のなせる業だろうか。


私と同じような課題を抱えていて、

藁をもすがる思いで私の記事を読み、少し心が軽くなる。

もしかしたら、そういう効果はあるのかもしれない。


だから私にとっては「そうでもない記事」

つまり「別に読まれたいと思っていない記事」であっても、

それが誰かにとって価値のあるものになる可能性はある。


詰まるところ、私は私の気の向くままに、好きなことを書いていればいいのだろう。


逆に「読んでもらいたい記事」


代表的なものはスワローズの応援記事だろうか。


私はスワローズを物心ついたころから応援しており、

もはや「チームの一員」という自覚すらある。


だからどこか「スワローズの魅力」というものを広く伝えたいという意図があるのだろう。

自然と記事には熱がこもる。


そして「社会問題」や「持論」を述べる記事、

拙い主張ではあるけれど、少なからず「世界に物申したい」という気持ちはある。

 

だからこの手の記事は「読んでもらいたい記事」ということになる。


ブロガーとしては、この手の記事を増やしていくべきなのだろう。

 

だけれども、この手の記事を書くには「意志」が必要になる。


自然と湧き上がる熱がなければ書き出しても「尻切れトンボ」となってしまうのだ。

そういう状態で止まっている下書きは多い。

 

だから「書きたい」と思ったときにザっと書き上げる。

細かいところは後で手を加えればいい。

そんなスタイルで書いている。


私は「私」に興味がある。

そして「人」に興味がある。


「私」を含む「人」の中に渦巻く感情、

その大きさはあまりに大きく計り知れない。

だからそこに「真理」があるのかもしれないと期待しているのだろうか。


私は何か「答え」を探して書き続けているのだろうか。

それとも「道中楽しみたいだけ」なのだろうか。


動機はともかくとしても、

私にとって「書くこと」はもはやライフワークとなっている。


少し「私の書いているもの」について考察したくなったので、このような記事を書いてみた。


全ての記事に「意志」があるわけではない。

だけれども、どんな記事が誰かの心に届くのかはわからない。

だから「書くこと」それ自体に意味はあるのだと思う。


少なくとも「書き手」である私には意味がある。

だから、こうして今日も私は書き続けるのだ。