SNSの発達により、成功者の生活をいとも簡単に疑似体験できるようになった。
「羨望」は手の届かないものではないと若者たちは錯覚して、その「羨望」と「現実」を比較しては軽い絶望を繰り返す。
生み出される「ルサンチマン」
「傷つく必要など全くないはず」なのに、
ないはずの傷口を深く抉られるかのように痛みは増していく。
「世界の距離」は近づき過ぎてしまったのかな。
y座標とx座標を計算して「ここら辺」と目指すべきところに印をつけようにも、
その座標の上限値が際限なく大きなものになってしまうから、
それが「平均値」を大きく押し上げて「今いる場所」に満足できなくなる。
「中央値」で見たらきっと現状でもそれなりのポジションを確保しているのにね。
誰かと比べるにしたって、その「比べ方」にもいくつもの種類がある。
「自分らしさ」と一口に言うけれど、
それだって「他人との比較」なくして見出すことは困難だ。
だから多くの場合は「憧れの人」がいて、
その「憧れている部分」をツギハギなんかして「理想」を形作る。
それを「自分らしさ」として世に売り出すのだ。
「人に恵まれる」ってことは大事なこと、
「メンター」を持てるってことはありがたいこと、
だけれども、地に足ついていないと、ただ何かに「ぶら下がっているだけ」の状態になる。
握力に限界はあるから、どこかで力尽きてしまうのだ。
「着地できる地面」があれば、まだやり直しは効くけれど、
それすら失ってしまったら、どこまでも落ちていく。
どんどん落ちていく。
「高い目標」を掲げて天井ばかりに気を取られていたら、
ふとしたを見下ろした時に「地面」がなくなっていることもある。
「大事にすべきもの」をしっかりと見定めて、それだけは蔑ろにしてはいけないんじゃないかな。
SNSなんてものはさ。
「見せたいところしか見せない」のだ。
だから誰もがキラキラ輝いているスーパーマンでありプリティウーマン、
彼らも「見えないところ」ではもがき苦しんでいることも少なくないだろう。
そんな「虚像」に憧れを抱いたところでさ。
それは「リアル」ではないんだよ。
妙な錯覚「なんとなく」
何となくうまくいくような気がして、何となく自分にもやれそうな気がする。
そんな「なんとなく」が蔓延った結果、
「自分は報われるべきだ」「報われないのは社会のせいだ」ってさ。
そんなモンスターが生まれてしまうんじゃないかな。
我々凡人が積み重ねるべき努力というのは、
地に足ついたものでなければならない。
「小さな絶望」を積み重ねてこなかった人間には、
「大きな絶望」を受け止めることはできないのだ。
何に憧れて、何を目指すのか。
どれだけ便利な世の中になったとしても、
それだけは、お手軽なオンライン上ではなく、
肌感覚で実感しないといけないんじゃないのかな。
世の中には人を食い物にしようとする人たちが蔓延っている。
人は驚くほど容易く他人を切る。
簡単に繋がれる関係であればあるほど、
切るのも簡単なのは道理だ。
バーチャルな世界に人生を質入れしすぎないように気をつけなければならない。
流れてしまったら、取り返しがつかないのだから、