バストの「ゆれケア」について思うこと

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この手の記事を書くときは先に予防線を張っておく。

過去にこんな記事を書いた。

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私は自身に内在する「加害者性としての男性性に思い悩むフェミニスト」だ。

ポルノを見てしまうことへの罪悪感から100日以上のポルノ断ちも実践した。

元カノと2晩を共にしても手を出せなかった、童貞の模範囚だ。

 

冒頭それだけは主張しておく。

 

さて、最近どうしても耳から離れない言葉がある。

 

「ゆれケア」

スポーツブラ「CW-X」のCMで発せられるフレーズだ。

 

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最後に「バストを守れ!」と声を合わせる女性たち、

 

先日記事にした通り、

申し訳ないとは思いつつも、私は女性の胸ばかりを見てしまうことがある。

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「胸のことが気になって思う存分に運動ができない」

男の私にはわからないけれど、そういう女性は多いのかもしれない。

 

「性的な目で見られなくない」

 

多くの女性はそう思っているのだろうけれど、

中にはそれを武器にする女性もいる。

 

だから、そっちの印象に引っ張られて、

単純で直情的な世の男たち(過激派の女性方は猿と表現するが)は、

ピッタリサイズの動きやすい服装で胸を揺らして動く女性の姿に、

どこか「期待」を抱いてしまうのだろう。

 

だから、世の男たちは「揺れている胸」に釘付けになる。

それに対する「嫌悪」

それを解消するための「ゆれケア」

そんなところだろうか。

 

だけれども、世の女性たちは「膨らんだ股間」が視界に入ったときに、

そこに視線を落とさないのだろうか。

 

少し前の話だけれども、

私が落とし物を取ろうと机の下にもぐっておしりを突き出すようなポーズになると、

それを見た後輩女子は私を見て「足の筋肉すごいですね」と言った。

「足」とは言いつつもそのポーズで強調されるのは臀部、

「おしり」を見ていたことは明らかだ。

 

個人的には女性にそう言われることは嬉しかったけれど、

人によっては「性的に見られた」と苦痛に感じるかもしれない。

 

おまけに女性は男の「手」をよく見ると聞く。

そこに何らかの性的なものを感じるらしい。

それは「男が胸を見ること」と何ら変わりのない動機を感じる。

 

私のようにトイレに「掃除のおばちゃん」がいても関係なく用を足す男もいれば、

「小」であっても個室でないとできないという男もいるようだ。

後者の男性にとっては女性から「性的にみられること」は「苦痛」となるのだろう。

 

バストは上半身にあるからコミュニケーションを取る上で視界に入る。

しかし股間はそうではない。

もしかしたら、それだけの違いなのかもしれない。

 

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結局はさ。

男だとか女だとかは関係ない。

 

男は女を、女は男を、

お互いがお互いを「品定め」しているのだ。

 

「品定め」をされること、

 

それは男だろうが女だろうが、

どちらにとっても不快に感じること、

 

「運動をしやすい」という理由で「ゆれケア」をするのであれば、

それは理にかなったことだろう。

 

だけれども、申し訳ないけれど「ゆれケア」をしたところで、

「品定め」に対する不快感が解消することはないと思う。

 

だから 「バストを守れ!」

私はこのフレーズに対して違和感を覚える。

 

いったい何からバストを守るのだろうか。

 

「汚らわしい男の視線」からだろうか。

それとも、物理的に「ゆれから守る」ことを指すのだろうか。

 

残念ながら揺れていなくても、

そこに胸があれば男は視線を向けてしまう。

それは意識してもなかなか完全に避けることは難しいのだ。

 

どうやら人は「理性的」になりすぎているようだ。

 

「本能的な部分」を「汚らわしい」と自分と切り離すことに躍起になって、

どんどん「生物」から「無生物」へと、

進化だか退化だかわからない方向へと進んでいる。

 

そう感じるのは私だけだろうか。

人は「AIになること」でも目指しているのだろうか。

 

これから先の時代、

AIに労働力の大部分を奪われたときに「人は何をもって人であるのか」

そんなテーゼを突き付けられる時が来るだろう。

 

私には「トラウマ級の不誠実さ」を突き付けられて、

二度とかかわりたくないと思う女性はいる。

 

同じように「ゆれケア」にこだわる女性は、

「性的に見られること」に対してトラウマを抱えているのかもしれない。

 

だけれども、その解決策を社会に求めることは、

なんだか違う気がしてしまう。

そこに私の中に生じる「違和感」があるのかもしれない。

 

トラウマ級の経験をしてしまったら、

「関連するすべて」を否定しないと生きられない時期はあるだろう。

おそらくその延長線上に「男チーム」と「女チーム」がある。

 

そうやって互いのチームを敵視することで自尊心を保とうとする。

ある種の自己防衛本能、

 

だけれども、トラウマってものはさ。

封印して心の奥底に隠していても、どこかでひょっこりと顔を出すのだ。

 

少しずつそれと向き合って、

無力で愚かだった「過去の自分」を許してあげる作業が必要なんじゃないかな。

 

許せないのは「男」ではなく「あいつ」や「あいつら」

私にとって許せないのも「女」ではなく「不誠実なクソ女」

すなわち、特定の「あいつ」

 

その対象を無駄に飛躍させて苦しみを増幅させる。

私自身、さんざん悩んだけれど、それって不毛な行為に他ならない。

 

別に「許す」必要はないけれど、

いつまでも「許さない」必要もないんじゃないのかな。

 

手放して自由になればいい。

そのためには「あいつ」のことは許せなくても、

不甲斐なかった「過去の自分」は許してやらなければならない。

 

「不甲斐ない」

自らの過去をそう思えている時点で、過去から成長できているという証拠、

きっと「許す」ことだってできるはず、

 

「ゆれケア」

 

どうも「性差」や「人権」を売り物にしているものを見ると違和感を感じてしまう。

 

いろいろな商売があってそれに救われる人もいるのだろう。

それは理解できるけれど、

ジェンダー」のことを書き出すと筆が止まらないのは、

そこに私のコンプレックスがあるからだ。

 

こうして筆を執って自分を慰めているということは、

「私の器が小さい」という証拠なのだろう。