正解は一つではない。
それこそ、「人の数」だけある、
いや、一人の人にとっての正解も無数にあると考えると、
「人の数」なんてものでは収まらないのかもしれない。
それだけ無数の正解があるということは、
それに至るルートも無数にあるということ、
一見すると「間違い」に思えるような選択でも、
もしかしたらそれが「正解」なのかもしれない。
今の世の中は格段に「自由」が増えて、
自己責任ではあるが、人生をカスタマイズするためのパーツはそこかしこに転がっている。
高校を卒業して、大学を卒業して、就職して勤め上げる。
何度か交際経験を経て、運命の人と巡り合い結婚して、子を産み育てる。
そんな「モデルケース」のような人生は、
徐々に「レアケース」へと向かっているのかもしれない。
今は「何が正しい」と断言することが難しい時代、
だから、「自分はこうしたほうがいいと思う」
そういう表現に留めるしかないのだ。
あとはその言葉の端々から誠意が伝わること、
「相手のことを思って言っている」
そういう気持ちが伝わるようでなければならない。
親や教師は「友達」に近づき、
年齢や経験も成果へと直結するとは限らなくなった。
「個性を尊重する」
そうやって若者は社会に出ると握られていた手を離されて、
ある意味では「大海原を自分の力で乗り越えること」を求められる。
パーソナリティは肥大化したものだから、
これまでの「経験」という信仰をもとに生きたいと願い、
「指導されること」を嫌って、
アドバイスに対しては「なるほど」と答える。
「与えられること」に違和感を感じているものだから、
「与えられたこと」に対しても「自分で選び取ったことだ」と思いたがる。
それが「なるほど」という言葉に垣間見えるのだ。
「正解」を持たないのに「正解」を知った気になる。
そうなってくるとまた難しい。
先日視聴したオンラインセミナーで面白い問いかけがあった。
逆説的に「人が育たない環境」について条件を挙げていくというもの、
「1から10まで指示を与えて自由を奪う」という声もあれば、
「目標を与えない」というものもあった。
要は「バランスが肝」となるのだ。
マネジメントする側は、
「わからないようにレールを敷いてあげるスキル」を求められるようになる。
「自由」を尊重しながらもある程度は導く必要があるだろう。
そのためには、まず自分がそう働かなくてはならない。
バランスよく「抑えるべきところ」と「遊び心を加えるところ」を見定めて、
生き生きと働いている必要があるのだ。
若者たちはそういう上司の姿を思った以上に見ている。
「自由」でありたいと思いながらも「メンター」を欲しがる。
そしてそれを「自分で選択したい」と思っている。
「どこかにじみ出る余裕」
そこに若者たちはそこに「ほかの大人たちとは違う」と魅力を感じるのかもしれない。
「人が記号になっていく」
映像の中の人たちとリアルに接する人たちの「境目」はあいまいになっていく。
これから先の未来は、より一層それが顕著になっていくだろう。
「会った回数」よりも「触れた回数」のほうが力を持つのだ。
だから若者たちは「画面の中の成功者」と「リアルの上司」を比較する。
そういう恐ろしい世の中になりつつあるのだ。
どんどんハードルは上がっていく。
SNSの申し子たる若者たち、
彼らに「経験」はなかったとしても、少なくとも目だけは肥えている。
評価するのはマネジメント側だけではない。
互いが互いを評価する時代に変わってきた。
「リアル」と「バーチャル」の境目があいまいになると同時に、
「正解」と「不正解」もまた、あいまいになっていく。
何事も決めつけないで、その本質を洞察する力、
そして、そこに対して理解・共感する力、
加えて、それを判断して全体における最適解を示す力、
これから先の時代が求めるビジネススキル、
なんともレベルの高いものだ。
「正解」なんてものは、その形をあいまいに変えている。
今現在見えている「正解」の形に囚われてしまうと痛い目を見るのかもしれない。