「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

人は「生きる意味」を見つけるために「価値あること」をやっていると信じたがる

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「生きる意味」を見つけることは困難だから、

人は「価値あること」をすることでそれを代用しようとする。


BUMP OF CHICKEN『ギルド』

「人間という仕事を与えられてどれくらいだ

ふさわしいだけの給料もらった気は少しもしない」


大いに思い当たる歌詞だ。


そう感じているのならば、

おそらくそれは自分の人生に期待しすぎているから、


「自分はもっと報われていいはずだ」って、

「それだけの努力はしてきた」って、

そうやって人は自分の人生を高く見積もろうとする。


「価値ある人生」だとか、

「自分らしくいられる場所」だとか、

「信頼できる繋がり」でさえも、

全て代替行為なのだ。


「生を実感したい」


詰まるところそれを求めて、

人は生きているんじゃないのかな。


「価値あること」をしていれば、

なんとなく「居場所」がある。

 

「価値あること」をしていれば、

「生きていてもいいんだ」って思える。

 

「価値あること」をしていれば、

そこにだけリソースを費やしていればいい。


なんともわかりやすい答えだ。


「生」に付加価値をつけることで、

「生」が意味のあるものに思えてくる。


だからわかりやすく成果の上がる、

「仕事」というものにのめり込むのだ。


みんな「わかりやすい答え」を求めている。


ある人にとっては、それが「家庭」かもしれないし、

ある人にとっては、それが「趣味」かもしれない。


誰かから認められること、

こんなにわかりやすい「答え」はない。


一人で山奥にこもって、

滝に打たれたり、瞑想したりしたところで、

「生きる意味」にたどり着くことは困難だろう。


だから人は人とつながる。

「生を実感するため」に人とつながるのだ。


だけれども気をつけなければならない。


自分の人生を誰かに委ねすぎてしまうと、

誰の人生を生きているのかわからなくなる。


自分一人で背負わなければならない部分というものはあって、

それまで質に入れて、流れてしまったら最後、

もう元には戻らないのだ。


生きていることを実感する主体は「自分」

その「主体」であることを放棄してはならない。


どんなに辛くて苦しかったとしても、

それもまた「生」の一部なのだ。


時代はどんどん便利になって、

生活面では苦労することなく生きられるようになった。


反面、人がこれまで「苦労すること」で実感していた「生」

それを手放さざるを得なくなっている。


大河ドラマ『青天を衝け』を見ていて感じるけれど、

江戸末期なんてマンパワーが重宝されていた時代は、

手足を動かすだけで「生きる意味」が生まれていたのだ。


生活が便利になることで、

それがどんどん奪われていくというパラドックス


薄々それに気が付きながらも、

人は進歩を止めることはできない。


もはや人が「人である」ためには、

ただ動物的行為を続けるだけでは物足りないのだ。


ハードルはどんどん上がっていく。


その中で生み出される「生きる意味」


差し出せるものは「思いやり」なのかな。

そして「感謝」なのかな。


「生きる意味」が枯渇しそうな時代だからこそ、

自らが誰かの「生きる意味」になる。


そのために必要な「思いやり」であり「感謝」

まだまだ人が人であるためにできることはたくさんあるのだ。


「組織への貢献」だけが全てではない。

「誰かに認められること」が全てではない。


それを「信じたがる」のは結構だけれども、

それ以外のものを信じられなくなったら人として終わり、


「価値あること」


たとえ手足を縛られていて、

意識が朦朧としていたとしても、

その存在が「誰かの生きる意味」になっていれば、

それは「価値あること」なのだ。


「水を与え合う」


「生きていること」をそう表現していた小説があったな。

吉本ばななさんの『アムリタ』だったか。


心がカラカラに干からびてしまいそうな時代だからこそ、

お互いがお互いに潤いを与え合う。


「人類の希望」ってものは、

そこにあるのかもしれない。