去年の話題作、
あまり恋愛ものを好んで見るほうではないのだけれども、
GEOの100円セールにほだされて手に取ってしまった。
想像以上にすごい作品だった。
これは「純文学」だ。
「花束みたいな恋」
彩り豊かで全てを兼ね備えたような恋、
そんな表現だろうか。
奇跡みたいに気が合って、
奇跡みたいに居心地が良くて、
奇跡みたいに惹かれ合う。
しかし、それには「賞味期限」がある。
あまりにも美しい時間を共有してしまった二人、
「その期間」が美しすぎるあまり、
「そうではない期間」を許容することができなくなってしまう。
散りばめられた大人たちのセリフと、
純な二人とのコントラストがそれを際立たせる。
「若いころの恋愛」と「結婚」は違う。
「賞味期限を過ぎた後は、引き分け狙いで終了までボールを回すだけ」
サッカーに例えた皮肉、
別れ話を切り出す場面は秀逸だ。
切り出してはみたものの、
「ハードルを下げて」結婚へと踏み出そうとする二人、
そこに「ハンマー投げ」のように思いっきり遠心力を付加して、
全力でガツンとぶつけてくる「過去の美しかった自分たち」
このシーンだけでも十分に見る価値はある。
現代版『木綿のハンカチーフ』とでも言うべき儚さ、
違うのは物理的な距離は離れていなかったこと、
一緒に住んでいても、
同じ時を重ねていても、
心はどんどん離れていく。
共に過ごした4年という歳月、
お互いがそれを肯定して先へと進んでいく。
「恋愛」って何なんだろうね。
その先に「結婚」があるわけじゃないのかな。
おそらくこの二人は、ある瞬間において、
お互いのことがわかりすぎてしまったのだろう。
だけれども、
それは広い宇宙の中で偶然にも星と星がぶつかるくらいの奇跡、
そして、そのまま二人がずっと重なり続けることは、それ以上の奇跡なのだ。
一度目の奇跡に、もう一度奇跡を重ねることは不可能に近い。
始まりが美しすぎるあまりに離れていく。
過去の美しかった時間が、
二人の日々を傷つけていく。
どちらもお互いを好きで、
どちらもお互いを思っていて、
どちらもお互いを大事にしているのに、
それでも傷口はふさがることはない。
人は何で人を好きになるんだろうね。
好きになればなるほどに、
「冷めた気持ち」と折り合いをつけることが難しくなる。
それとも、
「たまらなく好き」な期間を過ごしたからこそ、
「冷めた気持ち」を抱えながら生きていけるのだろうか。
私はこれまで、それを信じたがっていたけれど、
相手の綺麗なところを知っているからこそ、
醜いところも受け入れられるって、そう信じたがっていたけれど、
「すべてがそう思い通りにはいかないよ」って、
そんな現実を突き付けられたような気がする。
生活のために働いて、
生活のために相手を見つけて一緒になる。
そうやってライフステージを進めることが目的になってしまうのかな。
印象的なセリフがあった。
それまで涙を流すほど面白いと思っていた作品が心に響かなくなって、
空いた時間をつぶすために「パズドラしかやる気がしない」という言葉、
「ソシャゲ」は報酬系に作用して脳内麻薬をドバドバと生み出して、
「報われる努力」を演出する最たるもの、
「先に進みたい」
そのことに支配されて過去を蔑ろにする自分への葛藤、
それを見事に描いたシーンだった。
現代人はさ。
「進んでいないこと」に耐えられないのかな。
「停滞感」に耐えられないのかな。
SNS全盛の時代、
世界中が比較対象だからさ。
常に自分と誰かを比較しながら生きている。
どこかで「折り合い」をつけなければならない。
「妥協」ではなく「折り合い」なのだ。
その難度はウルトラC、
承認欲は青天井にどんどん伸びていく。
「自由」を与えられれば与えられるほどに、
「生きること」は難しくなっていく。
どれだけ難しくなれば気が済むのだろうか。
ただ、好きになった人と生涯添い遂げて、生を全うできればいい。
そんな理想さえも高望み、
経験を積むほどに「見えている世界」は変わっていく。
それに従って「理想」や「目的」も変わっていく。
それを変えることのできない不器用な人間には生きづらい世界だ。
「生きること」に振り回されながら、
どこかで「折り合い」つけて、
「落としどころ」に満足して生きていく。
それさえできれば、
あとは自然と「自分の選択」を肯定するようにプログラムされている。
みんな「ご都合主義」で生きている。
そうしないと生きてはいけないのだ。
『花束みたいな恋をした』
この作品は、恋愛における「美しさ」と「儚さ」
その両方をわざとらしいくらいに2時間に詰め込んで、「恋愛」と言うものを端から端まで描こうとした作品だと感じる。
「恋愛」と「結婚」は別物、
そんな現実を私に突きつけてくる。
思った以上に力のある作品だった。