何か目には見えない大きな流れがあって、
それに抗うように生きていても、
もしかしたら、それはロスの多いサステナブルではない生き方なのかもしれない。
主人公の性質を通してこれを「自分のやり方にこだわりすぎている」と表現していた。
私もそういう性質を持っていて、
それは歳を取るごとに強くなっていく。
心が耐えきれなくなり、
一度多くを手放した末にここまで辿り着いた。
だから今は割と自分のことを客観的に見て、
どこか自分を研究対象のようにしている節がある。
心の動きをつぶさに観察して、
こういうときの自分はこんな心の動き方をするのかと、
どこか別の視点から眺めているような時もある。
精神的と身体的、
一度ずつ死にかけたものだから、
心の振れ幅は小さくなったのかもしれない。
その小さな振れ幅に物足りなさを感じて、
「転職」という形で環境を大きく変えてみたけれど、
悪戦苦闘しながらも、口では「大変だ」と言いながらも、あまり振れ幅は大きく変わらないようだ。
慣れないことばかり、
できないことも多い。
期待されている水準からは程遠いだろう。
もちろん努力はしている。
だけれども、淡々と任されたことをこなしながらも、
どこかで予防線を張っている自分がいる。
「時間をかければなんとかなる」
「これまでの経験上、一定の立ち位置は確保できる」
「最悪、出来なくても死ぬわけではない」
そうやってどこか割り切っているのだ。
「必死で頑張る」とか、
「何がなんでもやるしかない」とか、
どうもそういうスタンスにはなれない。
少し前に記事にしたけれど、
これは「高揚感に身を任せられない」ということと同義なのだろう。
ここを変える必要があるとは感じている。
一つギアを上げて、キャッチアップに取り組まないといけない。
求められているものが想像よりもずっと高かったのだから、
この客観視、
ブログを通して身についたものだけれども、
これは私にとって「武器」であり「弱点」でもあるのだ。
このことに気がつけただけでも、
環境を変えた意味はあるのかもしれない。
今回の転職はキャリアアップ、
だけれども、私は私のことを過大評価していたのかもしれない。
「自分のやり方」を手放したと思っていたけれど、
気がつくと新しい「自分のやり方」に沿って生きている。
少なくとも今の状況では、
必死で食らいつく「前のやり方」の方があっているのだろう。
パッパッと自由に切り替えられるほど器用ではない。
それならば「出たとこ勝負」
「淡々とこなす」にしても、
「必死に食らいつく」にしても、
結局のところ、地道に積み上げていくしかないのだ。
環境が変わったことで、
前よりも「生きた心地」はする。
それをありがたく思いながら、
進めるところまで進むしかない。
そのうちにまた、
今の環境が「当たり前」になっているのかもしれない。
その繰り返しなのだ。